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第185回「やすらぎ修行会」プチ法話 2026/10/21

   成就院本堂を会場として台東診療所主催の「認知症カフェ」が行われました。認知症の家族を抱えている方や家族を介護されている方が、なかなか他人には話しづらい困りごとを分かち合ったり、情報を共有したりする場です。スタッフ合わせて30人が集いました。  初めに軽く体操を。首や肩や足を回し、体がポカポカ汗ばむほど。そしてウクレレの演奏に乗せ「上を向いて歩こう」を皆で歌いました。「上を向いてあるこう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く ひとりぼちの夜」。空気ががらりと変わり、ここそこですすり泣きが聞こえます。亡くなった親のことを突然思い出した方、一人で介護を担っている不安が溢れ出た方、まったく先が見通せず暗澹たる思いの方…。背負った重荷についついうちむききがちになってしまう日々。「上を向いてあるこう」という歌詞に励まされ、みなさんと声を合わせたことで心が震えたのでしょう。歌で心も温まりました。  5つのテーブルに分かれ、日常の様子やお悩みごとを順にお話しします。いらっとして怒りをぶつけた後悔や、家族の無理解、かたくなにデイサービスに行かない親への対応などなど。介護のベテランは、今まで辿ってきた経験を話すことができます。それは耳にスッと入ってくるのです。   初参加の方は、初めはオドオドしていましたが、先輩たちに共感してもらい徐々にリラックスし大きな笑い声も。「私が今まで行ってきたことに自信がなかったけれど、間違っていなかったことが分かり、心がスッキリしました」と感想を述べた方もいらっしゃいました。一時間半はあっという間に過ぎ去り、皆さん、名残を惜しむように本堂に残っておしゃべりをしていました。

第184回「やすらぎ修行会」プチ法話 2026/9/21

  とあるお寺で高校生にお掃除のお手伝いをしてもらった時のお話し。  帰りがけに薄謝を渡すと、3通りの表情が見受けられました。「まさか、謝礼をもらえるとは思っていなかった。こんなにもらえるの!」と驚いている人。「仕事した時間を考えれば、まあこんなものでしょう」と平然としている人。「なんだこれしかもらえないのか」とがっかりしている人。  同じ仕事をしたのにどうしてこれだけの差が出たのか。それは「当たり前の基準」がそれぞれ異なるからです。手伝ってくれた人の中で今日は良い一日だったと、「幸せ」を感じられるのは、「当たり前の基準」が低い人なのでしょう。    人は放っておくと「当たり前の基準」がどんどん上がっていき際限がありません。経典の中で、欲望は「火をつけた枯れ草」に例えらることがあります。欲しいものを手に入れると、さらに欲しいものが見つかり、刺激を求めるともっと強い刺激でなければ満足できなくなる。   「当たり前の基準」を下げることによって、日々のささやかな営みにも感謝の気持ちを持って暮らすことができるようになるのでしょう。   相田みつをさんの残した言葉に耳を傾けましょう。「しあわせは いつも じぶんの こころが きめる」。  

第183回「やすらぎ修行会」プチ法話 2026/8/21

 戦時の捕虜収容所では、レンガを運ばせ、運び終わったらまた元の場所に戻させるという、非人間的な労働が行われていたと聞いた記憶があります。「意味」の無い行為を延々と繰り返させられると心も身も疲弊し壊れてしまうのです。   「とあるレンガ職人の話」。ある人が「何をしているのですか」と職人さんに尋ねると、「レンガを積んでいるのだが、大変なのでこりごりだ」と答えました。別の人に同じ質問をすると、「私は城を作るためにレンガを運んでいるのです」と言いました。さらに別の人に尋ねると「私は、城作りとは街作りだと考えているのです」と返答しました。その後、また別の人に尋ねると「城作りは街作りであり、この町の歴史を作ることでもあると思っています」と述べました。   仕事を作業としてしか認識していない人、仕事の総体は見えている人、仕事の展望や可能性を見渡している人。同じような行為をしていてもそれぞれ認識は異なります。行為にどのような「意味」を与えるかによって、自らを輝かせることもできる。自らを取り巻く、人や物や出来事から豊かな物語を紡ぎ続けることにより、「生きる力」が醸成されていくのでしょう。   仏教では「縁起」を説きます。縁が結ばれ、今たまたまここにこうしてある。不変なる実体などありません。どのような「意味」を与えるかはあなた次第。生き生きと過ごせるよう自らを俯瞰的に見れる視点を意識しましょう。  

第182回「やすらぎ修行会」プチ法話 2026/7/21

 施餓鬼会とは、読んで字の如く、「餓鬼たちに飲食を施す儀式」です。でも、お盆と重ねて行われることが多く、先祖供養の行事とイメージされる方も多いでしょう。果たして「施餓鬼会」には、どのような意味合いの行事なのでしょうか。 ある夜、釈尊の十大弟子の一人で多聞第一と呼ばれた阿難尊者の前に、口から火炎を吐く恐ろしい餓鬼が現れ、「お前は3日後に死んで、餓鬼の世界に生まれ変わる」と告げました。驚き恐れた阿難尊者は、釈尊のもとを訪ねると、餓鬼に飲食を施すよう指示し、少量の供物を無限に増やす「陀羅尼」を授けました。阿難がその通りに実践すると、餓鬼たちは安らかな世界へ導かれ、阿難自身も寿命を延ばすことができたというお話しがあります。これが「施餓鬼」の起源とされます。 阿難尊者は、餓鬼道に堕ちないための解決法を釈尊に求めました。しかし、釈尊は、「自分だけが助かる方法」ではなく「見えないところに苦しむ無数の餓鬼たちと共に助かる方法」を授けました。これこそが施餓鬼の要点といえます。 塔婆供養をする身近な方々だけでなく、名も無き誰かにも思いを致し、御功徳を振り分ける、これが「施餓鬼会」の意味合いなのです。 「勤行式」の最後「願はくは、この功徳を以て、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」とお唱えします。「お経をお唱えした功徳を、自分だけではなく、すべての存在に振り分ける」ということ。 「自分の幸せ」と「他者の幸せ」を切り離さないという考えが、仏教の根底に流れているのです。

第181回「やすらぎ修行会」プチ法話 2026/6/21

  「スクールカースト」とは、容姿や学力、スポーツ能力等によって、暗黙のうちにクラスの中に形成された序列をいうそう。「一軍」-クラスの中心で目立つグループ、「二軍」-最も人数が多く、静かに生活している層、「三軍」-からかわれやすく孤立しがちな層。自分の立ち位置を気にしながら、日々を過ごすのは息苦しいですね。でも、時が経てば、そこからは解き放たれます。   インドには古来から「カースト制度」呼ばれる慣習があります。「カースト」とは、「バラモン」-司祭者を最上として「クシャトリヤ」-王族、「ヴァイシャ」-商工業、牧畜、農業、「シュードラ」-上の三つに奉仕する隷属的な身分、そして「アウトカースト」と呼ばれる不可触民。職業は世襲であり、別のカーストの人とは、食事を共にすることさえできず、況んや結婚・恋愛については言うまでもありません。1945年には法律で差別を禁止したものの、まだまだ慣習として根強く残っているそうです。   紀元前5世紀に生きた釈尊はこんな言葉を残しています。「生まれによってバラモンになるのではない。行いによってバラモンになるのだ」と。社会を成立させる基礎的な条件であった「カースト制度」を頭から否定しました。  「結果」には「原因」がある。その「原因」をもたらしたものに、さらなる「原因」が…。望ましい「結果」にも、望ましくない「結果」にも必ず原因があると釈尊は説かれました。   「いま」は過去の原因がもたらしたもの。「未来」は、「いまここ」の出来事の積み重ねで変えることができる。それでは私は「いま」何をなすべきなのか、沈思黙考し、そして行動いたましょう。

第180回「やすらぎ修行会」プチ法話 2026/5/21

  「昭和には当たり前であったもの」というテーマでひとしきり盛り上がりました。黒電話、ポケベル、赤チン、電車の吸殻入れ、ナウい、ミーハー、月賦、一気飲み、30分前集合…。物や言葉、考え方、習慣などなど時を経て大きく変りましたね。これからもまた変わっていくのでしょう。   我が心身も同様、昔の写真を見ると、体型や顔かたちも変わりましたし、もちろん中身も。それではこの変化はいつ起きたのか?それはいつとも定め難い。常に変わっていると考えざるを得ません。  すべてのものが常に移り行くことを「諸行無常」といいます。「無常」の語に、負の色合いが付いているように感じがちなのは「失うこと」「壊れること」に不安を抱くからでしょう。人間関係、地位、財産、評価など、「無常」なのにもかかわらず執着してしまうため、人生は悩みに満ちているのです。  それでは 「無常」の世を、よりよく生きるためのヒントとか何なのか。変わっていくものを「変わってはいけない」と握りしめることで執着はより強くなっていき、痛みもより強くなっていく。それぞれが握りしめている力を緩めてみる。まず自身の心を観察すること、何にこだわっているのかを知ることがスタートです。  ひとつひとつの呼吸を意識してゆっくり歩いてみましょう。食事の際、目をつぶって味をさぐってみましょう。一瞬一瞬をいとおしむように生きれば、日常の中にキラリと光る宝が見つかるかもしれません。

第179回「やすらぎ修行会」プチ法話 2026/4/21

 あるホームレスの方が、こう呟きました。「何がこわいかって、1人で逝くのが一番こわい。だってあの世でずーっと一人だよ。ずーっと暗闇なんだよ」と。家族との関係を絶たれ、帰るべきふるさともない。この世でも、そしてあの世でも「無縁」。どうこの世を旅立っていくのか。  北九州を拠点とするNPO法人「抱樸」。炊き出し、パトロール、自立支援住宅、就労支援に止まらぬ幅広い活動を重ねています。「葬送」については互助会を組織し、普段から誕生会や旅行などで交流を重ねているそう。お別れの時は、「共に生きた仲間」として一緒にすごします。   遺影やご遺骨は、連携している教会の、高い天井から光が差し込む礼拝堂脇の小さな部屋にご安置され、年に一度の「偲ぶ会」では、遺影とともに、これまで亡くなった故人の名前が記された横断幕が壁に張り巡らされ、亡くなった方の「ストーリー」を知っている方が、皆の前で思い出話を語ります。故人が確かに「生きていた証」を皆で共有するのです。最後には「ありがとう」という感謝の言葉や「安らかに」という祈りの言葉が捧げられたとか。  「葬送」とは、個人の尊厳や生き方と深く結びついた営みです。本来、事業として設計され、ビジネスとして展開されるべきものではありません。日常の「つながり」の積み重ねの延長に自然と起ち上がってくるもの。「家族」ではないけれど「共に生きた仲間たち」に見送られる。それが合わせて、その場に参列した方々の「安心」や「支え」にもなっているそうです。   「おひとりさま」という言葉をよく耳にする昨今、「どうこの世を旅立っていくのか」という問題は、ホームレスの方々だけの問題ではありません。