2011(平成23)年「やすらぎ修行会」プチ法話 第1回~第8回
第一回「やすらぎ修行会」プチ法話 2011/04/21
およそひと月前、大震災による大津波、また福島の原発事故という未曾有の大事故を目の当たりにしました。家の中を暗くして、じっと不安におびえる毎日を過ごしました。私は、初めて自らの「死」に直面し、おたおたしてしまいました。
そのとき、読んだアルフォンス・デーケン著『よく生き よく笑い よき死と出会う』を読み心が、少し軽くなりました。
氏は、誰しもが人生で遭遇する老・病・死との出会いを自分の潜在的能力に対する「挑戦」(チャレンジ)と記します。自分ではどうしようもないことに思いわずらい、貴重な精神的エネルギーをどんどん消耗してしまうのではなく、困難を直視し、「応戦せよ」と鼓舞するのです。それは、まさに「戦い」であるゆえ、全力を尽くして立ち向かうという覚悟が必要なのです。
私にとって「やすらぎ修行会」を行うのもひとつの「チャレンジ」です。みなさんがこの会に参加しようとお考えになったのも「チャレンジ」であると思います。
私たちは、この日一日を後悔無きよう精一杯生きなくてはならないのです。
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第二回「やすらぎ修行会」プチ法話 2011/05/21
宇宙から夜の地球を写した合成写真を見たことがあります。光り輝いているのは、アメリカ東部、ヨーロッパ、そして東アジアの一部だけです。光に包まれた日本列島は、黒々とした海の中に浮かび上がっています。
太古の昔より、我々の祖先は、人の力が及ばぬ「闇」を克服しようと努力を重ねてきました。それが人類の「進歩」の歴史ともいえます。日本も経済が成長していくのに比例して、街が明るくなっていきました。しかし、街に光があふれ、目が痛くなるような光の洪水を垂れ流している震災前の状況は、あきらかに行き過ぎであると言わざるを得ません。
そのような、より明るく、そしてより便利にという私たちの「欲望」が作り上げたものが、まさに原発だったのです。私たちは、この震災をきっかけとして、今までの価値観の再検討を求められています。
ところで、「小欲知足」という語を最近よく耳にします。「欲望を抑え、わずかなことでも満足すること」の意です。明かりを消して部屋を暗くし、「節電」をして生活するというと、気が晴れません。そこで、「暗闇」を楽しむ、という考えはどうでしょうか。「暗闇」でごはんをいただくと、それぞれの食材の味がよくわかるといいます。この「やすらぎ修行会」も、「暗闇」を味わおうという、ささやかなこころみのひとつなのです。
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第三回「やすらぎ修行会」プチ法話 2011/06/27
震災後の数週間を思い起こせば、本当に暗い毎日でした。あのとき、街では、トイレットペーパーが買い占められ、スーパーの食料品売り場はガランとし、まったく商品がありませんでした。あのとき、お店ではいつもより多くの商品を店頭に並べたと聞きます。しかし、心が不安にかきたてられ理性のたがが外れてしまうと、少しでも多く欲しくなってしまう。わたしたちの欲望には際限がありません。
人は、自分が一番愛しい。自分にとらわれると、他人のことを考えることができません。それは、古も今も、インドも日本も変わらないようです。経に曰く、 「人の思いは、いずこへもゆくことができる。されど、いずこへ赴こうとも、人は、己より愛しいものを見出すことはできぬ」
仏教では、ものごとにとらわれた心を「渇愛」といいます。喉が渇いてしかたがないとき、際限なく水を求めてしまうように、次から次へと欲望がわき起こり留まることがないことを表します。
ブッダは、「苦」を克服するためには、「苦」である現状をまず認識すること、そしてとらわれた心をなげうつことが大切であることを教え諭しました。
以前に経験した楽しみと苦しみとをなげうち、また快さと憂いとをなげうって、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただひとり歩め。 『スッタニパータ』
目先の出来事や相手の発言についつい引きずられ自分を見失ってしまいます。「犀の角のようにただ独り歩め」とは、周囲にひきずられることなく、自己をしっかりと保つことを表したものなのです。
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第四回「やすらぎ修行会」プチ法話 2011/07/21
「もったいない」=「MOTTAINAI」という語が世界に広がっているそうです。それは、環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんが、来日した際、この語が循環型社会を実現していくための「ゴミ削減」「再利用」「再資源化」という要素すべて含んでいるだけでなく、かけがえのない資源への尊敬の念が込められているのに感銘を受けた事が始まりです。
ところで、大震災の後、スーパーの食品売り場に品物がまったくなく、ガランとした風景が我々の不安をますますかき立てました。初めて目にする風景でした。スーパーやコンビニは、欠品が出ないよう細心の注意を払っています。それは、商品がない状況はお客の購買意欲をそぐからだそうです。さて、今、我々が日常目にしている棚にあふれる肉や刺身のゆくえは、どうなっているのでしょうか。
日本の食料自給率は39%。アメリカ(128%)、イギリス(70%)、フランス(122%)、ドイツ(84%)と先進国最低レベルです。世界で最も食物を輸入しているにもかかわらず、食物の3分の1を廃棄しています。大量生産、大量消費を是とした「豊かな」生活を甘受している中で、我々は、食物に対する感謝の念、尊敬の念を忘れてしまったのではないでしょうか。それは何も「食物」だけにとどまりません。
この度の、東日本大震災が、いままでの暮らし、考え方を改める契機となってほしいと思います。
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第五回「やすらぎ修行会」プチ法話 2011/08/21
昔、山伏たちは、草を枕に大地に伏し、水を求めて沢を下り、木の実や山菜を求めて山野を駆けめぐっていました。そして、その厳しい行を通じて「験(げん)」を「修」め、里へと下り、人々の苦悩と向き合いました。よって、「山伏」を「修験者」ともいいます。
この8月、真言宗智山派の行者10名とともに、武州・三峰山から雲取山を経て、甲武信岳、そして甲州・金峰山にいたる4泊5日の修行に参加しました。あいにく、毎日毎日、曇り、小雨、日が差したかと思うと、本降りの雨が身体をたたくという不順な天候でした。そんな中、10~12時間、ただひたすら歩み、祠があると法楽を捧げるというときを過ごしてきました。
修験道の修行のテーマは、「死」と「再生」です。忘我の境に入るほどのつらさを噛みしめ急坂を登り、冷たい雨に叩かれ、そして、険しい岩場をよじ登り…。擬似の「死」を経験し、そして、洞穴(母の胎内)をくぐり抜け、「再生」するのです。大自然の中、非日常的な厳しい環境に身を置く。普段抱え持っている重たいものを「行」を通して振り捨てていく。そして「空っぽ」になった心に、「験」というのかもしれない、新たな「何か」を満たし、里へと帰っていくのです。
さて、11人の行者は、「験」を得たのでしょうか。よくわかりませんが、みな充実感をみなぎらせ街へと下りてきました。身体を追い込むことにより、心が整っていき、そして力がみなぎってくるのですから…。どうも、頭の中であれこれこねくり回すより、「やー」と身体を使った方がすっきりしそうです。山は色々なことを私たちに教えてくれます。
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第六回「やすらぎ修行会」プチ法話 2011/10/21
「路上生活者」のことを、私の子どもの頃は、「乞食」「ルンペン」「おもらい」などと呼んでいました。今は、「ホーム・レス」と呼びます。どうも、それらの言葉が使い古され「蔑視」のイメージが張り付くとそれをさらりと脱ぎ去り、また別の衣を新たにまとうことにより、自分たちの立ち位置をあいまいにしてきたように思えてなりません。
ここでいう「ホーム」とは、物理的な住む場所というだけでなく、心のよりどころであり、帰って行く場所という意味も含んでいます。「ホーム・レス」とは、「路上生活者」の物理的な状況だけでなく、心のありようをも表す言葉なのです。
8月13日池袋と新宿の「夏祭り」に初めて参加しました。炊き出しの後、スイカ割り、カラオケ大会、検診などが行われますが、それに先だって、この一年の間に亡くなった路上生活者の方の「慰霊祭」が行われます。簡単な祭壇が飾られ、それぞれの名前・年齢・亡くなられた場所が記された紙が貼られ、その前にお花が供えられています。新宿では、40名ほどの方が亡くなられました。
読経中、100名を越す大勢の方がお焼香されました。一人のおじさんが言いました。「俺が死んでも悲しんでくれる人は誰もいない」と。祭壇に貼られた名前は、数年後の自分とも重なり、心からの哀悼の意を捧げたことでしょう。その思いは、焼香の煙にのってあの世へと届けられたでしょう。
家があっても、「仲間」がいても、「よりどころ」がないと思う人が、世間には多いようです。ところで、あなたの「よりどころ」とは何ですか。
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第七回「やすらぎ修行会」プチ法話 2011/11/21
夕方、「明日から職場体験でお世話になります御徒町台東中学校の者ですが、ご担当の方いらっしゃいますか」と電話がありました。まさに原稿棒読み、緊張している様が伺えます。多分、生まれて初めて知らない家に電話を掛けたのでしょう。とても貴重な体験ですね。
3日間の「授業」のうち2日間は、本堂から始まって書院、玄関の掃除、ガラス拭き、草むしり、そして写経も行いました。お昼も自分たちで野菜を刻み作りました。初めはぎこちなかった受け答えも、慣れるに従って返ってくる言葉が増えてきます。表情も豊かになり、リラックスして一生懸命掃除をしてくれました。はたきを掛けるのも、雑巾のすすぎ方を教わるのも、竹箒で落ち葉を掃くのもきっと初めてなのでしょう。親から言われると反発することも他人から言われると素直に聞き入れることができるようです。ちょうどお墓参りに来た檀家の人と会いました。「お寺をきれいにしてくれてありがとうね」といわれ、恥ずかしそうにコクリと頭を下げていました。
たかがそうじ、でも大切な学びの場です。「ありがとう」と他人に感謝され、小さな役割を果たすこと、その小さな自信の積み重ねが、やがては自らの「居場所」を見つけ、自らの「価値」を実感していく道筋なのではないでしょうか。
自らの「価値」は他人とのつながりの中でしか見出すことができません。他人と出会うさまざまな場を進んでつかみとり、つながっていけるよう心がけたいものです。
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第七回「やすらぎ修行会」プチ法話 2011/11/21
夕方、「明日から職場体験でお世話になります御徒町台東中学校の者ですが、ご担当の方いらっしゃいますか」と電話がありました。まさに原稿棒読み、緊張している様が伺えます。多分、生まれて初めて知らない家に電話を掛けたのでしょう。とても貴重な体験ですね。
3日間の「授業」のうち2日間は、本堂から始まって書院、玄関の掃除、ガラス拭き、草むしり、そして写経も行いました。お昼も自分たちで野菜を刻み作りました。初めはぎこちなかった受け答えも、慣れるに従って返ってくる言葉が増えてきます。表情も豊かになり、リラックスして一生懸命掃除をしてくれました。はたきを掛けるのも、雑巾のすすぎ方を教わるのも、竹箒で落ち葉を掃くのもきっと初めてなのでしょう。親から言われると反発することも他人から言われると素直に聞き入れることができるようです。ちょうどお墓参りに来た檀家の人と会いました。「お寺をきれいにしてくれてありがとうね」といわれ、恥ずかしそうにコクリと頭を下げていました。
たかがそうじ、でも大切な学びの場です。「ありがとう」と他人に感謝され、小さな役割を果たすこと、その小さな自信の積み重ねが、やがては自らの「居場所」を見つけ、自らの「価値」を実感していく道筋なのではないでしょうか。
自らの「価値」は他人とのつながりの中でしか見出すことができません。他人と出会うさまざまな場を進んでつかみとり、つながっていけるよう心がけたいものです。
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第八回「やすらぎ修行会」プチ法話 2011/12/21
大阪ダブル選挙の時、「47都道府県幸福度ランキング」が話題になりました。大阪府の幸福度が全国最下位だったからです。ちなみに一位は福井県、2位は富山県、3位は石川県でした。なんと、東京は38位。この「幸福度」とは、出生率、持ち家率、労働時間、失業率、犯罪件数など、40の指標を点数化したもので、そこに住んでいる人の「実感」はカウントされていません。
日々の生活の中でどの様な時に「幸せ」を感じるかと尋ねられたとき、みなさんはどのように答えますか。「仕事がうまくいき、お客さんに感謝されたとき」「自分の考えたことが実現できたとき」「親が会社から帰ってきた私に、お帰りと声をかけてくれたとき」「気の置けない友達とひさしぶりに会って楽しいひとときを過ごしたとき」などなど。他人の「幸せ」体験の話を聞くと、おおむね共感できることが多いと思います。
でも、もし同じ他人とまったく同じ体験をしたとしても、その人は「幸せ」と感じ、私はそう感じられない場合もあります。「幸せ」という認識は、多分に主観的なものなのではないでしょうか。
ここで「幸せ」を感じるプロセスについて考えてみましょう。「うれしい」「楽しい」と感じた、まさにその瞬間、「幸せ」をしみじみ噛みしめるということは、少ない気がします。「いま」から過去の「あの」瞬間を振り返り、「いま」のわたしが、そのときの感情に「幸せ」という言葉を与えるのではないでしょうか。
「幸せ」とは、「いま/ここ」にいる自分の心が決めるものなのです。