2017(平成29)年「やすらぎ修行会」プチ法話 第69回~第80回
第六十九回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/1/21
福島原発水素爆発の映像を覚えていますか。白煙がもうもうと立ち上っているもの、建屋が吹き飛ばされ鉄骨がむき出しになったもの…。それらを眼にしたとき、ああ、私の未来も閉じられてしまったと観念しました。悲しく、空しく、やるせなく、心にぽっかりと穴が空いてしまいました。これを見てみたい、あれを読んでみたいという希みが、日常を支え自分を牽引してくれていたことに気付きました。
「朝日新聞」(2017/1/5)に西口洋平さんの記事が掲載されました。彼は娘のランドセルが届いた頃、がんに罹患しステージ4であることを告知されます。仕事を続けられるのか、娘にはどう伝えるのか…悩みはつきません。相談できる人がいないことに困った西口さんは、患者の交流サイトを立ち上げます。ガンの種類、ステージ、子の年代など自分と似た境遇の患者を探すことができる。
抗ガン剤が効いて今は元気に暮らしているとのこと。医師から「今、元気なら3ヶ月は生きられる」と言われ、すべてを3ヶ月単位で考えるようになったそうです。このひと日を懸命に生きるというのは、毎日がとてもシンプルになり楽しいと記されています。
大船渡屋台村で飲食店を営む森さんはこうおっしゃいました。「こうして生きている私たちは津波で亡くなった人の分まで生きなくちゃ」と。森さんの口癖は「おかげさま」。「天使の森ブログ」にはお店の献立などとともに励ましの言葉が綴られます。「ガスもある、水も出る、米もある、店もある、見渡せば幸せだらけ❕幸せだなって小さなことでも思うと幸せの連打に参っちゃうよ」と。
死の淵をのぞき込んだ人は、腹がどっしり据わっていますね。最後に森さんのブログから。「今日も一日生きてること感謝して楽しい一日を創りましょう。すべてはうまくいっている!!」
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第七十回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/2/21
保護犬を譲渡してくれるNPOに行ったときのこと。工業団地の中にあるその施設に入ると、ワンワンと吠え声の洪水でした。飛びかからんばかりに吠えている犬、後ずさりしながら吠えている犬…。憎しみや哀しみをたたえたまなざしを向けられ、一歩ひるんだことを思い出します。
カリスマ・ドックトレーナーの映像を見ました。飼い主を噛んで病院送りにしてしまう凶暴な犬。散歩の途中に暴れ出し、飼い主に噛みつこうとしました。それは飼い犬に対する恐怖心が伝染し、より攻撃的になってしまうのだとか。恐怖心が自分を見失わせるのでしょう。そうしたとき飼い主は、まず深呼吸をするのがよいそうです。犬にも毅然とした態度で向きあうことが大切です。
次は人に触れられることへの恐怖心をなくす訓練、お風呂でのシャンプーでした。温かなお湯につかり心がリラックス、ゆっくり体を洗ってあげると徐々に信頼が醸成されていくのが見てとれます。次の瞬間、撮影スタッフが気にさわったようで突然威嚇を始めました。しかしトレーナーは、体に手を置いて落ち着くまでじっと待っていました。やさしく寄り添っているということを手で伝えていました。
凶暴だった犬は、すっかり落ち着いて穏やかなよい顔になりました。まっすぐに向きあうこと、誠実に寄り添うことから信頼感が育まれていくのでしょう。
飼い主が変われば、飼い犬も変わる。飼い犬が変われば、飼い主も変っていく。ほんとうに不思議ですね。
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第七十一回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/3/21
遍路をしているとき、歩き遍路の方からお寺の応対が悪いという話を聞きました。でもお寺からすると、挨拶の仕方が悪い、納経帳の返却に心がこもっていない、愛想がないなど怒鳴る人もいるとのことです。確かに問題のあるお寺もあるとは思います。が、お遍路さんの中には、自分は尊いことをしているのだからもっと大切にされてよい、そんな思いを持っている人もいるのではないでしょうか。
被災地での仮設住宅の集会所には、食べ物、飲み物、着る物、日用品など様々な物が届けられました。大勢の人がきちんと並んで物品の配付を受けます。震災から2年もたったとき、ある団体が品代100円頂くことにしたところパタッと人が来なかった。仮設のある方は「タダに慣れちゃうと、100円がもったいなく思っちゃう人もいる、『支援慣れ』してしまうのも困りもの」と仰っていました。
不幸な生い立ちを持った青年を、何人かが協力して支援しようと決めました。共に食事をしたり、靴を買って上げたり…しかし、スーパーに行ったとき、欲しい物を断りもなく籠に入れるようになり、食事の後、深夜まで帰らぬようになった。結局、不義理を働き離れていかざるを得なくなりました。自分は人一倍辛い経験をしたから、援助されて当然だと思ってしまったのかもしれません。
困ったとき、辛いときに温かな手を差し伸べられる。ああ、ありがたいと心から感謝する。でも慣れてくるとそれが当たり前になり、そして、してもらって当然という慢心が起こる。
支援するにしても人との距離の取り方は本当に難しいです。自分が助けられたときに抱いた感謝の思いは、他の方に振り分けるようにしたいものです。
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第七十二回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/4/21
東京に住む私たちは「なべやき」と聞くと「うどん」を連想します。が、大船渡で「なべやき」というと小麦粉と黒糖で作る「昔風ホットケーキ」といった素朴なお菓子をいいます。いろりに掛けてある「なべ」で作ったのでその名がついたとか。腹持ちの良いおやつとしてよく食べられたそうです。
大船渡中学校仮設住宅の集会所に伺うと、いつも森さんが、その「なべやき」を出してくれました。森さんは津波の被害に直接は合わなかったものの、全国から支援活動においで頂く方々に何かお返しがしたいと考えたそうです。私たちも楽しく語らいながらお茶とともに美味しく頂きました。
ある時、「なべやき」を勧めたところ、「また、これかよ」とつぶやいたのが耳に入った。「おいしい、おいしい」とみんなからほめられていたが故、よけい心に突き刺さったとのこと。もうやめようと心が折れそうになったが、翌日「ああ、自分は求めていたな」と気づき、変わらず作ってお出しし続けました。
以降、森さんは「なべやき」の御縁で静岡のお坊さんと繋がり、富士宮やきそばの修行へ。そしてキッチンカーを借りて開店。今度は友人から屋台村で代わりに店をやらないかとのお誘いが。とんとん話が進み、若い頃からの念願だったお店が持てることになりました。あいにくお店はかさ上げでなくなってしまいますが、目を輝かせ次の啓示を待っています。
森さんが言うには「あのとき心が折れてやめてしまったら、今の私はなかった」と。誰しも人生においてグッと踏ん張らねばならない時があるのでしょう。でも、それがいつなのかは過ぎてからしか分かりませんが…。
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第七十三回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/5/21
本山での修行中、起床は3時半。法衣に着替え、懐中電灯で足元を照らしながら道場へ向かいます。京都の冬はまさにキーンと底冷えで、快晴でも雪がちらちら、「東山しぐれ」というそうです。
行法を修していると、戸がすっと引かれ人の気配がします。しばらくすると再び戸を引く幽かな音が…。ご指導いただいている佐藤良盛阿闍梨は、毎日欠かさずそっと様子を見に来てくれました。後に聞いた話では、道場に入るや行者に礼拝して着座されたとか。誠に畏れ多い、もったいない。
佐藤阿闍梨は、毎朝不動堂でのお護摩の祈祷を行っていました。行者は交代で護摩壇の脇に座り、修法、所作を学ばせて頂きました。御護摩の炎に照らされる佐藤阿闍梨のお顔は、低い声で唱える御真言と相まって、神々しく仰ぎ見られました。
そんな佐藤阿闍梨に一度だけ叱られたことがあります。朝の勤行で職衆のお経がどんどん早くなってしまったことがありました。足もしびれるし、早く終えてしまいたいといういいかげんな心からだったのでしょう。勤行後の食堂にて、「みなさんに一言申し上げておきます。お経を急ぐということは、死に急ぐということ」と一喝。シーンと水を打ったように静まりかえりました。
まだ暗いうち佐藤阿闍梨の部屋からは、「チーン、チーン」という鈴の音が聞こえてくると聞きました。起きた後、一座修して勤行に望んでいるのでしょう。
法の伝授のみならず、その「背中」で「お坊さんとして生きていくということ」をお教え頂きました。ありがたい師でした。修行成満を記念して頂いた飴色に光る数珠をつまぐる度に佐藤阿闍梨の慈愛に満ちたまなざしを思い出します。
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第七十四回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/6/21
食事とは舌で味わうだけではありません。器や盛りつけを眼で楽しみ、出汁のよい香りを味わい…。また、高価なものだと聞いた途端、よりおいしく感じてしまいますよね。そうそう、食事には雰囲気も大切です。気のあった仲間とワイワイ楽しく食べればおいしいこと請け合いです。
6月6日「じょうじゅいんモグモグ食堂」がオープンしました。お年寄りが多く子どもが少ない東上野において、「子ども食堂を必要としている人」とは誰なのか。各所に足を運んだ結果、社会福祉法人「結ふる」さんとつながりました。
当日、ちょっと緊張した面持ちで寺にやってきました。車いすの子もいましたがスタッフの方がフォローしてくれ無事着席。興味深そうに畳の部屋を見渡しています。この日のメニューは、煮込みハンバーグ、にんじんのグラッセ、コールスロー、わかめとタマネギの味噌汁でした。みんな完食。この日は総勢子ども13名、大人10名、スタッフ8名。33個作ったハンバーグがすべて無くなりました。
子どもたちは楽しみにしてくれていた様子。おやつを食べないでお代わりをしてくれた子、いつもは食べないブロッコリーを食べた子、普段残してしまうのに完食した子、最後に小さい声で「楽しかった」と伝えてくれた子…。しぐさや表情など全身で喜びを表してくれました。施設に帰ってから「どうしてみんなと食べるとおいしいんだろう」と喜んでくれた子がいたと聞きました。
スタッフにも、その喜びの波動が感染し、感激の面持ちです。来てくれた子どもたちに「ありがとう」と感謝の言葉を贈っていました。みなさんやる気まんまんです。
訪れる人も迎える人も、互いに「ありがとう」と言える空間は素敵ですね。「子ども食堂」とは何も子どもたちだけのためにある食堂ではありません。
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第七十五回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/7/21
愛犬モモと散歩していたときのこと。犬連れのおばさんから、「あら、雑種なのにかわいいわね。どこかでもらってきたんでしょ。お金がかからなくて良かったわね」と言われ、超イラッときました。
そもそも犬の純血種とは何なのか。『日本犬の誕生』(勉誠出版)を読んでみました。
洋犬の純血種とは、優れた資質を際だたせようと犬を選別し繁殖させて作出されたもの。「ダックスフンド」は、穴に潜り込んでアナグマを狩るため、地低く足が短い体型であり、猟犬「ポインター」は、獲物の前に立ち片足をあげるポーズである「ポインティング」をすることによってついた名前です。警察犬や盲導犬として活躍するドーベルマンは、税金徴収を仕事としていたドーベルマン氏が警護のための犬種を生み出したため名付けられたとのこと。
日本犬の純血種とは、明治になり犬種の交配が進む中、はるか古より「日本人」によって飼育されてきた「日本犬」がいるに違いないと考えられ、性質が「勇敢」で「忍耐強く」、純潔であると思われる犬を山間部の猟犬の中に探し歩き、そうして「日本犬」が見出されました。改良を重ねることで作出された洋犬に対し、日本犬は「雑種」を引き算することにより作り出されたのです。
純血種の犬が高級で有能で壮健であるという物語は、社会が共有することで「価値」となりました。でも、それぞれの犬が交換不可能な固有の存在として「いま/ここ」にある。それが貴いこと。モモは、「ブランドもの」ではなく「ブレンドもの」です。「モモ」という固有の犬種です。
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第七十六回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/8/21
小学生の時、「私の夢」という題の作文を提出しましたが、先生にだめ出しされ、将来はお寿司屋さんになりたいと書き改めました。果たして、元々何と書いてあったのか、ぜひ知りたいです、その時感じた強い違和感に今ことばを与えたならば、なぜ他人に自らの夢を強要され、それをジャッジされなければならないのか、ということなのでしょう。
今辺りを見渡せば、夢の実現に向けて一途に打ち込み成功させたという言説が充ち満ちています。その体験を熱く語るのは、スポーツ選手、事業家、研究者…。もちろん夢をかなえた人ばかり。その立ち向かう気力、粘り強い実行力に頭がさがります。その生き様は輝いて見える。
夢とは、困難に負けず、辛さにくじけず前へと進んでいく力を与えてくれます。でも、夢を実現させたのは、ほんの一握りの人。夢とは、まず実現できそうにない仰ぎ見るものをいいます。
ですから、夢を持っていないからといって焦ることもないし、夢は他人に強要されるものでも、ジャッジされるものでもありません。そもそもそんな簡単に見つかるものでもないし、途中で変わってもよい。
夢とは育んでいくもの。夢とうまく折り合いをつけながら、楽しいことを探し日々をワクワク過ごすことができれば、それで最高です。
子どもたちに、「将来何になりたいの」「あなたの夢は何ですか」と軽々しくは聞けませんね。
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第七十七回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/9/21
友人がだいぶ酔っぱらって突然こんな話をしました。「高校時代、バシリとしてパンやたばこを買いに行かされてたんですよ。同窓会があって何十年ぶりに会いましたが、みんなすっかりオヤジになっちゃって。名刺を渡したら、会社を起こしたんだ、と感心されました」と。ちょっと誇らしげですっきりした顔をしていました。心躍る楽しい会とは思わなかったはず。きっと決意を固めて家を出たのでしょう。
児童養護施設で暮らす人と話をしました。度重なる虐待のため施設に入ったそうです。その後「もう一度一緒に暮らそう」と手紙が来た。でも、「親も自分のことで精一杯だったのだろうとは思うけれど、また同じ事を繰り返すだけ」と拒否。親とはもう二度と会うことはないだろうと言っていました。
合わせて彼はこんなことも言いました。「こうしてみんなと会えるのも、美味しく食事が出来るのも、親がこの世に生んでくれたから。すばらしいことだと思う。親が生んでくれたことについては感謝している」と。今、親についてどう思うかという問いには、「死ぬまで元気でいて欲しい」と。
ひどいことをされたけれど、決して許せはしないけれど、あるところは受け入れている。何度もあの頃を思い出し、格闘し、悩んで、血をしたたらせた、そんな果ての言葉だけに重く深い。
つらい過去を抱きしめて、それを乗り越えて生きていくということ。果たして、私ならば許すことが出来るのか…。彼らの覚悟が私の身に深く染み入りました。
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第七十八回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/10/21
納戸の大掃除を行いました。いろいろな物が「発見」されましたが、「電気火鉢」なるものには驚かされました。ワックスがかけられている木の箱には、ニクロム線がぐるぐる廻らされた電熱器が入っています。炭をおこして火鉢にくべるよりずっと簡単ですが、はたしてどれほど使われたのでしょうか。
さらには、こたつ、電気ストーブ、ガスストーブ、オイルストーブ、ホットカーペット、ガスファンヒーターなどなど、暖房器具の発達の歴史を、家に居ながらしてたどることができました。
資本主義とは人々の欲望をかき立て商品を購入させるというシステムです。より便利にと新たな機能を開発し、よりモダンなデザインへと洗練させていく。さらに商品の斬新かつ高級なイメージをテレビに乗せて流布させる。
これらの器具は高度成長期につぎつぎと購入された物です。納戸とは、より便利でモダンな物を手に入れたいと肥大化していった欲望がモノの形をなして蔵され、日常生活とは切り離され封印されている場所なのです。納戸にしまわれているのは、なにも暖房器具だけではありません。
不要な物を廃棄するのは「もったいない」ことではありません。使えるにもかかわらず新たな物を買い重ねるのが「もったいない」。きっと、かすかに感じている後ろめたさが、捨てずに取っておくことをうながすのでしょう。いま何が必要なのか、いま本当に買うべきなのか。衝動的に湧き起こる欲望を感じたら、一呼吸置きたいですね。
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第七十九回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/11/21
人間の身体所作は、生産の様式によって決定するといわれます。遊牧民の場合は、飛んだり跳ねたり俊敏に動作を行うのに対して、農耕民の日常は、大地をしっかりと踏みしめ、ぐっと力をいれ大地を耕し、収穫物を刈り取ります。身体に刻み込まれたリズムも同様です。バレーと能の挙措動作やリズムの違いを見ればイメージがわくでしょう。
気仙で活動を始めたころ、地元に伝承される節付きのお念仏を教えていただきました。鉦を叩きながら「南無地蔵大菩薩、南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩」と哀切を湛えた調べでゆったりお唱えします。海辺に座り、海に向かってお唱えすると、不思議と行方不明だったご遺体が上がってくるそうです。そのことが記された新聞記事を眼にしたのが御縁が結ばれるきっかけでした。
習って不思議だったのは、耳で聞いた音がそのまま出せないこと。西洋音階で音楽を習ってきた私たちは、何とも曖昧な音階や、揺れながら次の音へ移るその軌跡を発することがてきません。また、おばあさんたちに「早い、早い」と注意されました。ゆっくり唱えようとしても、ついつい早くなってしまいます。お念仏のリズムは、田植えやワカメを干す動作を行うときと同じなのでしょう。
私たちが営む日々の時の流れは、嵐の後の川のように、うねりぶつかりあいながら、激しく流れ去っていく。以前と比べますますその速度が増しているように感じます。ですから、お念仏のリズムを妙に遅いと感じてしまう。
体に刻み込まれているリズムを今さら変えることはなかなか難しいですが、たまにはゆるやかなリズムにゆったり心も体も任せきってしまうことも大切ではないでしょうか。
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第八十回「やすらぎ修行会」プチ法話 2017/12/21
御縁がつながり「子ども食堂にて」という映画を成就院で撮ることになりました。映画撮影を見学するのは初めの経験。結構、淡々とシーンを撮り進めるものなのですね。
事前に香盤表なるものが配付されます。撮影の順序や出演者の出入りなどが書かれたスケジュール表です。これを見れば一日の流れは一目瞭然。役者さんは出番に合わせてやって来て、撮り終わると帰る。次の出番があればずっと待つ。中には10時に撮ると19時まで待ちという方もいました。考えれば当たり前ですが、ワンシーンを撮るのに集まっては、すぐ別れしてしまう。
待ちの長い時間には、セリフを確認していたり、スマホで次の仕事の連絡をしたり…。思ったよりさっぱりとした雰囲気でした。でも、カチンコが鳴り本番になるや、優しい里親、虐待を受けた子ども、優しく接する食堂スタッフへと変身します。いらついて強い言葉を投げかけたり、涙ながらに訴えかけたり…。現実以上にリアルな人生模様が目の前に立ち現れました。役になりきることが出来るのは、この「時」のはかなさを共有しているからなのでしょうか。
出演された五大路子さんがクランクアップした時のこと。五大さん曰く「このメンバーで集まるのは今しかない。スタッフの方も一緒に入って撮りましょう」と。にこやかに写真に収まりました。今ここに集っているありがたさ、そして、すぐ別れてしまう寂しさ、「一期一会」をしみじみ味わった一日でした。
私たちの日常もまさに此くの如し。「一期一会」を噛みしめて、御縁の結ばれた方々と、燃えるように「今」を過ごしたいものです。