2014(平成26)年「やすらぎ修行会」プチ法話 第33回~第44回

 第三十三回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/1/21

 「新人類」「失われた世代」「ゆとり世代」「さとり世代」、それぞれの世代の特徴をつかんだ呼称を耳にします。みなさんは何歳くらいがそれぞれの「世代」に該当するのか分かりますか。

 それぞれの呼称に共通する要素は、若者に対する批判的なニュアンスです。それは、若者に対する、わかりにくさ・違和感によるものでしょう。

 エジプトの遺跡より発掘された、今から4,000年前の役人の書簡には、「此頃の若い者は才知にまかせて、軽佻の風を悦び、古人の質実剛健なる流儀を、ないがしろにするは嘆かわしいことだ…」と記されているそうです。(柳田国男『昔男と当世風』からの引用) 

 世間の人が、若い世代の人たちに抱く違和感は、遠く4,000年も前から綿々と続いてきたもののようです。若い世代も齢を重ねると、今度は批判する側へと身を置くようになる。考えてみれば、若者がどんどん愚かしくなって行くのであれば、社会は悪化するに決まっていますが、必ずしもそうなってはいないようです。

 私たちの世代にも問題だ思われる人はいますが、ひとりひとりの顔を思い浮かべれば、みな個性的な方々ばかり。定型的な判断に身をゆだね、相手を批評する立場に身を置くという態度は、そのものに向き合い、そして自ら考えるという行為を放棄していることに他なりません。

 このような態度は、「世代」についてだけではなく、身の回りに充ち満ちています。相手を批判するとき、ちょっと一歩立ち止まって考えましょう。

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第三十四回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/2/21 

 「受援力(じゅえんりょく)」という言葉を知っていますか。ボランティアを地域で受け入れる環境・知恵など、「支援を受ける力」の意味だそうです。

 東日本大震災の時も、仮設住宅に衣・食またイベントの実施などの様々な支援が入りましたが、毎日のように団体が訪れたところと、そうでないところとの「格差」が甚だしかったことを見聞きしました。まさに「受援力」の差によるものでした。せっかく訪れても人がまったく集まらないのでは、がっかりしてしまいますよね。支援活動は、「~させていただきたいのですが」という送り手の思いと、「ありがとうございます」という受け手の思い、双方が合わさり初めて一つの行動として完結します。

 これは災害支援だけでなく我々の日常にもあてはまります。「どうぞお座り下さい」と席を譲られたり、「タクシーを止めてあげましょうか」と声を掛けられたり…。手を差しのべられたとき、即座に「いいです‼」と断るのも考えもの。

 「布施」とは、慈悲の心を持って他人に施しをすること。大事な修行のひとつです。優しい言葉を掛けていただき、それをそのまま受け入れることはその方の「修行」に直接かかわることに他なりません。「布施」とは受けるべきものなのです。

 我が家のカレンダーに記されていた言葉に「ありがとうという素直な心」というものがありました。つまらぬプライドを捨て、ありがたいと素直に頂く心を持ちたいですね。

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第三十五回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/3/18  

 キウイフルーツといえば、鮮やかな緑色の果肉とフレッシュな甘みが特徴です。調べると日本には、1960年代に入ってきたそうですが…。初めて食べたのはいつなのでしょうか。記憶は定かではありません。そのキウイですが、たまにまだ熟れていないため、固くて酸っぱい「はずれ」に当たることがあります。どうしたらおいしく食べられるのでしょうか。

 キウイは、収穫後もそのままではなかなか熟成しないとか。リンゴと一緒にビニール袋に入れるという方法をよく耳にします。リンゴから発生するエチレンが熟成を促進するそうです。ただしリンゴの種類によっては、うまくいかない場合もあるとのこと。木になっているときに熟すことを「成熟」といい、収穫後、一定期間置くことで、甘さを増したり果肉をやわらかくする処理のことを「追熟」といいます。

  熟す簡単な方法として、ゴンと机などに叩きつけるのがよいそうです。その衝撃がストレスとなり「追熟」が進むのだとか。ただし、衝撃が強すぎると皮が破け、そこから腐敗が進んでしまいます。ころあいが難しそうですね。ひとつが「追熟」していくと周りにもその影響を及ぼしていくそうです。なかなか興味深い現象です。

 人間も「追熟」していくには、なんらかの衝撃が必要なのでしょう。ただしあまりにも衝撃が強すぎるとそれは問題です。衝撃をまたストレスを、力に変えて、そして自らを深めていく。人にとって「追熟」とは、年代に応じて何度でも何度でも必要なことのようです。

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第三十六回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/4/21       

 今年の3.11から6日間かけて、地元の方々と気仙三十三観音徒歩巡礼を行いました。寒風に吹かれ、雨に叩かれ、みぞれに打たれ、毎日20~30キロをひた歩き。足が上がらなくなった人、足裏のまめがつぶれた人、膝の痛みに一足一足激痛が走った人とまさに満身創痍の巡礼でした。

 それでも、私たちを家の前でずっと待ち道を教えてくれたり、お菓子を袋に詰めて車で届けてくれたり、暖めておいてくれた部屋でホットコーヒーをご接待してくれたり…。気仙の方々のやさしさに背中を押され手を引かれ、成満することができました。総距離160キロ。感激でした。

 参加者の一人は、筋肉痛で足が上がらなくなりました。家に帰る途中、五葉温泉が筋肉痛によいと聞き、毎日訪れたそうです。「本当によく効くんですよ。びっりしました…」、確かに効果抜群だった模様。とはいっても日に日に温泉の効果を上回る疲労が…。最後は強い気力で歩ききりました。

 結願の浄土寺をお参りした後のこと。「これからまた五葉温泉ですか」と尋ねると、友人の所に向かうとのこお答え。なんでも長年のお付き合いかつ毎週サークルで顔を合わせる友人が、大震災から3年が経ったこの3.11にツイッターで姉を津波でなくしたことを初めてつぶやいたそうです。いつもずっと一緒にいたのに全く知らなかった…。その方は、会で差し上げた観音様散華を胸のポケットに入れ、33観音を歩き通しました。これからその散華をお渡しにいくのだそうです。

 思いをカタチにし、それを人に伝えるということがいかに大変なことなのか、学ばせていただいた6日間の徒歩巡礼でした。

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第三十七回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/5/21   

 「高福祉国家」として著名な北欧のデンマークに福祉を学ぶために短期留学をした方にお話を伺う機会がありました。ある老人福祉施設を訪れた時のこと。中庭にあるがっしりとした椅子に一人のおじいさんが座っていました。悠々と新聞を広げて読んでいる様は威厳があり、果たしてこの方が利用者なのかといぶかしく思うくらい。しかし、近づくとどこかがおかしい。新聞を上下逆さに広げていたからなのでした。そのおじいさんは、何十年も毎朝毎朝、新聞を読むことを習慣としてきました。病を得た今もなお、「新聞を読む」という行為をすることにより心が落ち着くのだいいます。

 私にとっては子供の頃から毎日欠かさず続けている掃除と朝のお勤めがあげられます。学生のとき、勤めていたときは、慌ただしい朝の時間、ワサワサとひととおりのことを行い、急いでご飯を食べて家を出ていました。でも当たり前となっていた一連の行為を面倒でやめたいと思ったことはありません。今それらは、ここが私の生きる場所と確認する毎日のひとときでもあります。

 社会の動きが急で「変化」が求められるこの頃です。刺激的なもの、躍動するものに価値があると思われがちです。確かに古い自分を脱ぎ捨てて、新たに生まれ変わらなくてはならないというのはもっともです。が、その「わたし」を支えているのは、とりわけおもしろくもなく日々淡々と繰り返される平凡な行為なのでしょう。

 みなさんにとって、そのような行為とは、どのようなことですか。朝、仏壇に手を合わせることと言っていただけると嬉しいのですが…。普段とりわけ気にもかけない何気ない行為に目を向け心を寄せることも大切なのではないでしょうか。

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第三十八回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/6/21   

 ある日のこと、口、鼻、眼が言い争いを始めました。

  まず口が言うには、「私は三度の食事を取り入れ生命の根源を支えている。にもかかわらず、一番下に甘んじているのはおかしいではないか。鼻はただただ傲然と座っているだけで何もしない」。

 すると鼻は「私は呼吸という大切な任務をこなしておる。食事は何日か取らなくても死ぬようなことはないが、呼吸はそうはいかぬ。不眠不休で働いているからこそ、顔の中心にいるのだ」と。

 なるほどと思った口は「ほんとうに眼というのは、食事や呼吸とも関係ないくせに、我々を偉そうに見下ろしている。まったく不逞なやつだ」と、今度は眼にいちゃもんをつけた。すると眼は「世の中には危険なものが身の回りにひしめいている。それらを回避するために高いところから監視しているのだ。下の方に移って大切な責務が果たせなかったらどうなると思う」と。

 それにしても腑に落ちないのは眉毛の存在。三者は眉毛に詰問する。「僕たちは   それぞれ重要な役割を果たしている。君は何の役割も果たしていないのに、どうして一番高いところに居座るのか」。眉毛は眉をひそめるでもなくこう答えた。「僕自身お恥ずかしいことに何をしているわけでもない。みなさんには本当に感謝している。僕はただあるがままにこうしているだけなのです…」。

  中国清朝の詩人、兪曲園が残した『顔面問答』というお話です。自分が自分がといい立てるのではなく、謙虚に生活したいものですね。

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第三十九回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/7/21   

 先日、ご法事が終わった後、小学3年生の男の子に質問されました。「お坊さん、どうして138回、木魚を叩いたんですか」。御真言をお唱えする数なら聞かれたことはありますが、木魚を叩く回数については初めてです。ご法事の間、心を向けて、何回叩くのだろうとずっと数えていてくれたのですね。ちなみに回数に決まりはありません。この少年は、亡くなったおばあさんの顔を知りません。また、周りの大人もかまってはくれないし、ご法事とは手持ち無沙汰で所在ない時間ですよね。

 ご褒美に木魚を叩かせてあげました。ぽく、ぽく、ぽく。木魚には、龍の彫刻が彫られていること、龍の口には玉を咥えていることをまた「発見」しました。ご両親、おじいさんも木魚を叩かせてもらえる機会なんて二度とないから叩かせてもらいなさい、とニコニコ嬉しそうでした。なぜなのかどうしてなのか、生き生きとした眼で辺りを見ることは大切です。

 翌日のご法事は、これまた小学生がどうしても正座をしたいとのこと。大人はみな椅子に座りましたが、ひとりお坊さん用の朱色の布団に座ってもらいました。すごいナーと周りから声をかけられ、まんざらでもない様子。法事の後は、足もしびれなかったと満足げ。周りからも偉いナーと誉められていました。

 じっと我慢できず出て行ってしまう子もたまにいますが違いはどこにあるのか。我慢が出来ない子の親御さんを観察すると、どうもいろいろ口うるさく叱りすぎているよう見受けられました。

 親は、いつも愛情を注いでくれ、自分を守ってくれるのだという安心感、いわゆる「ホーム」があるので、ちょっと冒険が出来る。何か見てやろう、聞いてみよう、してやろうという好奇心を発揮することができる。学びの原点は、好奇心です。やわらかな心、しなやかな心をずっと持ち続けて成長しつづけてほしいと願ったひとときでした。

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第四十回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/8/21    

  先月の炊き出しで、隅田川沿いを白鬚橋から桜橋へと歩きながらおにぎりを配っていたときのこと。中学生が500mlのペットボトルに水を詰め、おじさんたちを襲撃しようという現場に遭遇しました。すぐさま警察に連絡をしことなきを得ましたが、こんなにも身近で「ホームレス襲撃事件」が起きているのだということに驚きと戸惑いを感じました。

 8日14日に、ひとさじの会も協力した「野宿者への襲撃に関する調査」の調査結果が発表されました。新聞にも記事が掲載されましたが、ご覧になった方はいらっしゃいますか。それによると、野宿者の40%が襲撃を受けたことがあり、子ども・若者が、夏場に、グループで、モノを使った暴力に及んでいることが多いということが明らかになりました。その襲撃とは、ロケット花火を打ち込んだり、火の付いた煙草を投げ入れたり、鉄パイプで殴りつけたりとはなはだ悪質です。

 ホームレス襲撃に加わり逮捕された子供たちを取材した本を読んだことがあります(『ホームレス襲撃事件と子供たち』北村年子 太郎次郎エディタス)。それらの子供たちは、家庭や学校で居場所がなく自分を認めてくれる存在がないこと、「仲間」には「過剰な同調」と「競争意識」を強いられていた存在であることが記されていました。そして、自分より弱い他者を攻撃することで自らの存在を実感する。彼らもまた、世間によりどころを持ちえない「ホーム・レス」なのだといえましょう。ホームレス襲撃事件は、自分たちと地続きのこの生きにくい社会が生み出した出来事なのです。

 最後に襲撃を受けたあるおじさんの言葉にちょっと耳を傾けましょう。「襲撃するやつらにも、つらいこととかいろいろな事情はあるんだろう」と。

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第四十二回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/10/21   

 被災地で仮設住宅にお住まいの方の悩みとは、高台にあるので上り坂がきつい、バス停が遠い、壁が薄いので隣の音や声がうるさい、夏暑く冬は寒い、などありますが、一番多い悩み とは、部屋が狭いということです。

  家族の人数が多くとも3部屋が最大。収納スペースが小さいため、日用品が居住スペースを浸食してきます。棚を作りデッドスペースを極力無くそうと空間を無駄なく使っても限度があります。

  被災地でこんな話を伺いました。津波が来て良かったことなどほとんど無いけれど、仮設に住んだことによって家族の距離がぐっと近くなった。それまで家族がそれぞれの部屋にバラバラにいたので、そう話をしなかった。でも仮設に入ってからは、いつも身近にとうちゃんもばあちゃんもいるので、安心して楽しく暮らすことが出来る、と。

 このご家族は、隣家の屋上に逃げられたため、かろうじて命が助かったそうです。生死の境を共にさまよった同士として、家族という絆がより強く結び直されたのでもありましょう。

 私たちの感覚は、無意識のうちに物理的な環境によって形作られています。たとえば住環境。家族それぞれの部屋があることで、プライバシーが守られ、家族の目を気にすることなく自由に振る舞うことが出来る。しかし、それによって家族の繋がりが弱められてしまう。一戸の密閉性が高いマンションではご近所との繋がりを意識的に結ばなければ、それを得ることができない…。

 不安定な「私」を結びつけ定位させてくれるのは、他者との間に張り巡らせた網なのです。それが密であればあるほど安定する。人との絆は、意識的に結ぼうとしないと上手くいかない、そんな時代を私たちは、生きているのです。

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第四十三回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/11/21  

 人はいくつもの「物語」を生きています。例えば、頼りがいのある一家の大黒柱という「物語」、誰からも好かれる人気者の私という「物語」…。人は「物語」に背中を押され導かれて生きています。

 被災地で活動している移動傾聴喫茶「カフェ・デ・モンク」を主宰している金田諦応さんのお話しを聞いてきました。そこからのエビソードをふたつばかり。

 父親とうまく関係を結べなかった女の子の物語。父親は津波で流され亡くなってしまいました。家族喪失の悲嘆と合わせて、もう二度と父親と仲直りが出来ないという悲しみ。彼女は3年が経ち悲しみをと向き合うことが出来ました。それは、家の跡地から、父親が丹精していた花が震災後初めて大きな花を咲かせたことが契機だそうです。彼女は、ここに家を再建し父が育ててきた花とともに生きていくという「物語」を紡ぎ出しました。

  奥さんと娘さんお孫さん3人の家族を津波で亡くしたおじいさんの物語。初盆のこと、灯籠を海に3つ流しました。その灯火は風に吹かれ、波にもまれれ、それぞれの方向へと流れていきます。しかし不思議なことに3つの灯は沖の方で寄り添いひとつになって波の彼方へと消えていったそうです。おじいさんは、あの世でも3人はいつもいっしょにいるのだ、そんな「物語」を紡ぎ出しました。

 「物語」は「生きる意味」を与えてくれます。「私はなぜここにいるのか」「私はこれからどちらに向かって歩んでいけばよいのか」を示してくれます。人は「物語」に背中を押され導かれて生きています。

 ところで、あなたは「いま」どのような「物語」を紡ぎ出していますか。

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第四十四回「やすらぎ修行会」プチ法話 2014/12/23  

 学校には校内放送が必ず設置されています。避難訓練の際に使用されたことを覚えていますか。私が勤めていた学校では、休み時間や放課後になると校内放送を使用した生徒の呼び出しがうるさいほど流れました。一度会議で「下品な行為なので慎みましょう」と苦言を呈したことがありますが、静かな休み時間を過ごせたのはおよそ10日ばかり。

 他校の状況を調査しようと何人かにお尋ねしたところ、使われたかどうかさえ記憶にない、ほとんど使用されない、一部の教員を除いてはないとのお答えです。我が校が特殊なケースなのでした。

 放送では、担任している生徒やクラブのマネージャーの名を上げ「大至急教員室まで来なさい」と呼びつけます。中には怒りを露わにした口調の放送もありました。放送を使用せずとも、ちよっとクラスに立ち寄って隣の生徒に言付けたり、紙を机上に置いておいたりすれば事足りるはずです

  でも、なぜ放送をして呼びつけたいのか。私は、他者を自らに意志のままに動かしたい、自分の声を校内にとどろかせ自らの力を確認したいという「権力欲」が心の底にあるのではないかと思いました。だから「下品な行為」だと指摘をしたのです。

 「教員/生徒」とは「指導する者/指導される者」という非対称的な関係です。教員は、自らの言動を点検する必要があるはずです。

 このようなことは、みなさんの職場や家庭でも程度の差こそあれよくあるのかも知れません。人に頼んでおきながら文句を言ったり、思い通りにならないと人のせいにしたり…。

 品のよいコミュニケーションを心がけたいものですね。

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