2015(平成27)年「やすらぎ修行会」プチ法話 第45回~第56回
第四十五回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/01/20
午後9時の都営三田線には、一車両に36人が乗車していました。そのうち、読書をしている人2人、話している人3人、寝ている人2人、その他はうつむきがちにスマホに向かっていました。多くは盛んに指を動かしています。メールをしているのでしょう。改めて見やると異様な光景だと感じました。
高校教員のときは山岳部の顧問でした。山中は電波状況が悪く、なかなかつながりませんが、あるポイントで突然つながりドッとメールが入ってきます。部員は一本取る度にケイタイを見ていました。「お前は何件メール来てる?」交友関係の広さが受信メールの件数で数値化されていました。
ある知人が「私には1000人の友人がいます」と言いました。どうもこれはSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービスの略)で繋がっている人が1000人いるという意味のようです。天声人語に記されていましたが、人間の脳のキャパシティーでは150人と繋がるのが限界とか。その人が言うところの「友人」とは果たして誰を指しているのでしょうか。
インターネットにより人と人との間に網が張り巡られ、見ず知らずの人ともすぐにつながることができる。驚きです。でもそれは、すぐにつながりを切ることもできるということ。私たちは、見知らぬ同志とすぐつながることができる悦びと、いつ切られるかも知れぬという不安を合わせて抱え持つことになりました。若者はすぐにメールを返せるよう、寝るときは枕元にスマホを置いて寝るそうです。
科学技術の発達に人間が追いつけない側面がますます露呈してきたのでしょう。人との繋がりをより強く太くしていくのは泥臭い交流の積み重ねです。良縁はそう簡単には結べません。
************************
第四十六回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/02/21
最近、「終活」がブームです。「終活」は、財産分与やお墓といった問題を次代に残さない手だてを講ずるというのみならず、遺影撮影や入棺体験、模擬葬儀体験などなど、人生のエンディングを考えることを通じて自分を見つめ直そうというところまで深まりを見せてきました。
「終活川柳」より、「揉める声 聞こえ 三途が 渡れない」、親族が揉めてしまったら成仏できません。もう一句「遺影撮り 毎年美貌 磨く義母」、「終活」を通じさらに元気になる方もいるようです。
ある老人ホームでの話です。お子さんを2人とも医師に育て上げ周囲からは「良妻賢母」の鏡といわれた方が、晩年「助けて、助けて」と叫んでいたそうです。子育てについて周りからのプレッシャーをずっとずっと強く感じていたのでしょう。また、奥さんでも娘さんでもない女性の名を呼び続けたおじいさんがいたといいます。胸の中で固く秘めてきたことが病を得て露わになってしまいました。
対して車いすでも部屋の電灯をつけたり、カーテンを開けたりと進んでお手伝い下さる方もいるそうですし、子供の名前さえ分からなくなってしまってもお経を聞くと自然と手を合わせる方もいるとか。
多くの方の最期に立ち会ってきた医師の堂園晴彦さんは、著書の中でこのような言葉を残しています。「人は生きたように老いていく。人は生きたようにしか死んでいけない」と。
「終活」も大切なことだと思いますが、生き方が亡くなるその時の心を決めるのであれば、この瞬間の積み重ねがまさに〈終活〉ということになりましょう。『論語』から、六十歳を「耳順」七十歳を「従心」といいます。なかなかその境地に達するのは遠いですね。
************************
第四十七回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/03/16
「ありがとう」三題。
「ありがとう」という言葉を広めようと全国を講演している人が記した冊子を頂きました。その本には、こう記されます。怒りを覚えた時でも、あきれ果てた時でも、ともかく「ありがとう」と口にしましょう。毎日毎日、何百回も「ありがとう」を口にし続ければ、自然と「ありがとう」という感謝の気持ちが湧き起こるようになるのです、と。果たして、言葉に血を通わせるのに特別な訓練が必要なのでしょうか。どうも自らを洗脳しているようで是非やってみようという気にはなりません。
お花の先生の話。若い頃はいくつもの職場で教室を持ち、お弟子さんも増えるばかり。新年会では、広い会場にあでやかな着物を着飾った門下生が大勢集まったものだといいます。しかし、時が経つにつれ一人また一人と門下を離れていき、今では、数名になってしまいました。どうも「先生」と呼ばれる快楽に犯され情を通わすことを怠ってしまったようです。「ありがとう」というのは自らの威厳を弱めるものと考えていた模様です。
進行性のガンにかかり余命幾ばくもないと知っていた人の話。限られた時間の中で、ガンの仲間の容体を心配し、友人たちとは友情を深め、濃厚な時を過ごされた。子供たちには、病気と必死に闘い続けている姿を見せ、最後にゆっくりと話しをする機会を持って、「ありがとう」という言葉を残し、あの世へと旅立って行ったそうです。子供たちの心に大切な宝物を残していったと思います。
心からの「ありがとう」を自然と口にできるようになりたいものですね。
***********************
第四十八回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/4/21
以前、被災地では、こんな会話がよく交わされました。「あなたは今回何度目ですか」「あなたは何月に被災地へ入りましたか」と。私は早い時期から何度もここに足を運んだ。私は被災地のことをよく「知って」いる…。
初めて高田の街に立ったときのことをよく覚えています。海までずっと続く荒れ地。まだ市役所など鉄筋コンクリートの建物の残骸が残っていました。道路脇にはスクラップになった車。テレビの画面から見た印象とは明らかに違う被災した規模の大きさに圧倒されました。地元の人の話を聞き、昔の写真を見たところであまりのギャップに想像が追いつきません。現地に立たねば分からないことがある。でも以前の高田の街を、ここでどのよう暮らしが営まれていたかを、私は「知らない」。
3.11に行われた東日本大震災追悼式での菅原彩加さんのスピーチには、胸が苦しくなりました。がれきに埋もれたお母さんを助けようとしたものの、がれきは自分の力ではどうしようもないほど重く大きく、このままでは自分が流されてしまうと思い、お母さんの「行かないで」という声を振り切って、「お母さん大好きだよ」という言葉を残し、近くの小学校へ泳いで渡ったと聞きました。話からおおよその状況を「知る」ことはできるものの、彼女の悲しみの底に下り立つことは出来ません。
私たちは三陸沿岸部の被災状況や被災した方々の悲しみを「知っている」と思っていますが、果たして何を〈知っている〉といえるのでしょうか。
私たちは何を〈知っている〉のか。この問いは、何も被災地にかかわることだけではありません。
***********************
第四十九回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/5/21
ヘルパーの方が身体に障害のある方の家を訪れました。ひととおりの仕事をした後、流しにおいてあった食器を洗って伏せておいた。お年寄りのお宅では「ありがとう」と感謝の言葉をかけらるのに、このときは、「どうして私の仕事を取るのか」とたいそうな剣幕で怒られたそうです。
障害を抱え込んだ今となっては、あたりまえに出来た食器洗いが、一時間もかかってしまう。食器を洗うという行為は、自らができる精一杯のことなのかもしれないし、まだできることを確認する行動なのかもしれない、回復へと近づいていく手だてなのかもしれません。とにもかくにも、私が「やらねばならぬ」ことなのでしょう。手助けをしてあげることはその方の尊厳を犯すことになってしまったのです。
ヘルパーの役割とは「自立」を手助けすること。単に家事を肩代わりするために訪れるのではありません。
それでは、「自立」とは何か。すべきことを先送りするのではない、見ぬふりをするのでもない、居丈高に振る舞うのでもない、甘えるのでもない。自ら考え、自らが決断し、責任をもって実行するということ。出来ることは自らきっちり行う、出来ないことは他人にお願いする。
寝たきりになっても、また子供であっても精神的に「自立」はできるのです。逆に体が丈夫でも、お金がたくさんあっても、「自立」の出来ない人はたくさんいるということですね。
「自立」なかなか射程圏の広く深いことばです。
***********************
第五十回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/6/21
真言宗において、僧侶になってまず行う修行を「四度加行」といいます。その最初の2週間は礼拝行。「南無帰命頂礼 大聖如意輪観自在菩薩 蹔慙懺悔(ざんぎ・さんげ) 六根罪障滅除 煩悩滅除業障」と108返お唱えしながら五体投地を行います。これを日に三座。
「南無帰命頂礼…」は、「私は心より如意輪観音へ帰依します。今まで積み重ねてきた罪科のすべてを懺悔いたします。どうか、自他を迷わす煩悩や業の力を滅し除いてください」の意。五体投地とは礼拝の中でも最も丁寧な礼拝です。両膝、両肘、額を床に付け、仏様の御足を頂きますと手を上にささげます。仏様の御前にすべてを投げだし、帰依いたします、という意味です。
さて、信心を起こして仏道を生きていくことの大きな要素として自己反省があります。「蹔慙懺悔」とお唱えいたしました。「懺悔」とは、「私は悪いことをしました」と一度謝罪することではありません。自らの罪を告白することではありますが、自己の現実に目をそむけずにしっかりと見据え、自己の責任として受け止め、堪え忍びながら、正しいと教えられる生活を行うということです。
与えられた状況の中でより正しく前向きに生きること。なかなか思うように生き得ない自己に反省をくり返して生きること。「懺悔」が血や肉の中まで染みわたってこそ〈懺悔〉となるのです。ですから、初発の修行者は、まず礼拝行を行います。といっても「加行」を行った18歳の私はそういう意義もよく分からずにただ礼拝していましたが…。
仏壇やお墓の前で手を合わせたり、お寺をお参りしたときには、合掌するとともに「懺悔」の心を抱いてお参りされますと、よりご功徳がいただけるに違いありません。
***********************
第五十一回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/7/21
着物の仮縫いをするとき、布がズレないよう糸で仮止めをしておきます。これを「しつけ糸」といいます。着物が縫い上がれば取ってしまうので、手でひっぱれば切れるような弱さで縫うものだそうです。
「しつけ」とは、漢字で「躾」と書きます。この字は日本で作られた「国字」であり、「身」のこなしを「美」しくするよう仕込む、という意味あいを表しているのでしょう。美しい立ち居振る舞い、丁寧な言葉遣い、きちんとした礼儀作法を身に付けさせることは大切ですね。
「しつけ」も「しつけ糸」と同じ。大人が心を注いで付けてきた「しつけ糸」も、子供が「自立」したあかつきには取ってしまう。「しつけ」とはその子が「自立」するために行うものなのです。「しつけ」ができていないと「型」を調えるのが難しい、でも親の都合を押しつけるような「強い」ものであってはなりません。手を取って引き上げたり、後ろからそっと背中を押したり、優しい言葉をかけたり…。
お年寄りの「介護」についての理念も、また「自立支援」でした。他者の人生を伴走するときのキーワードは、「自立」を手助けすることなのだと気づきました。他者を「教え導く」という考えは、はなはだ僭越だということなのでしょう。「あいつは俺のお陰で…」などというフレーズを簡単に口にしてしまう人とは親しくつきあえません。
同じ高さに目線を合わせて、敬意をもってともに生きていくということ、これは子供やお年寄りだけでなく、誰と接するときにも心に止めておかなくてはならないことなのでしょう。
***********************
第五十二回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/8/21
二歳半の姪と久々に会いました。本をおみやげにあげると、「パパ、一緒に読もうよ」と手招きし、お父さんの股の間にちょこんと座って目を輝かせて、あれこれ父親とお話ししながら本を読んでいました。父親は私をそのまま受け入れてくれる人であり、身も心もゆだねきっていました。
いま、10代の女子がかかわる動画配信サービスが問題となっています。もっと多くの人にアクセスしてもらおうと、視聴者のリクエストに積極的に答えようとする。「マスク取って顔を見せて…」「下着姿が見てみたい…」。「私を見て欲しい。可愛いでしょ」という欲求が取り返しのつかない領域にまで足を踏み入れさせてしまったのです。
大学生にこんなことを教わりました。「心が風邪を引いたとき、心療内科で看てもらうよりもキャバクラに行った方が手っ取り早く治りますよ。何でも、『すご~い』とほめてくれますから」と。どこでこんなことを学んだのでしょうか。今の大学生は大したものです。勉強になりました。
お年寄りが布団や健康器具などを市販価格の何倍もの額で買わされるという詐欺事件が報道されました。裁判を起こし闘った人がいる一方、「営業マンは、何度も何度も足を運び、優しい声を掛けてくれた。息子のようだった。あの人は悪い人ではない」と語った人もいました。私と親しく接してくれた人を愛おしく思ったのでしょう。
子供から高齢者まで世代にかかわらず、日々の暮らしの中で「承認欲求」をめぐる問題はあちこちに見られます。「承認欲求」を充たしていくには、まず自らと向き合うこと、そして自らが考える「正しさ」を掲げ日々過ごすこと。「承認欲求」が充たされるまでの道のりは、そう近くはなさそうです。
***********************
第五十三回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/9/21
ある山岳部の顧問が部員に「夏合宿はどこにいきたい」と聞いたそうです。答えは「穂高か八ヶ岳に行きたい」。穂高は一昨年、八ヶ岳は昨年登った山でした。先生はちょっと拍子抜け。主体的に山に関わろうとしない部員は、今まで登った山のリストの中からしか選べないことが多いとか。
高校時代、国土地理院(25,000/1)「笹子」の地図にある山を登り尽くそうと計画を立てました。滝子山、本社ケ丸、雁ケ腹摺山、そして道が無い大久保山など。一つの頂に登ると次の目標が生まれます。次はどこの山に登ろうか…。湧き起こる思いはさらに私を遠くの山へと導いてくれました。
穂高も八ヶ岳も素晴らしい山。何度登っても美しい風景を見せてくれます。しかし、山を始めたばかりの人には、もっと様々な地域の趣の異なる山に登って欲しい。色々な登り方をして欲しい。可能性を自ら狭めてしまうのはもったいないですね。
経験が貧弱であると、行動の範囲が狭められてしまう。行動の範囲が狭まってしまうと、心もやせてくる。次はもっと範囲が狭められる…。というように、負のスパイラルにはまってしまいます。痩せていくのは経験だけでなく、思考方法や友人との関係の結び方にまで広がっていくでしょう。
ワクワクして生きていくには、主体的にものごとにかかわる姿勢が必要です。若くとも、年を取っても瑞々しい感性を持ち、楽しく生きていきたいものです。
***********************
第五十四回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/10/21
「どっこいしょ 手をしまったと口にやる」(第12回健康川柳より)。立ち上がるとき、つい「どっこいしょ」と声が出てしまいます。それはまさに「老い」そのものなので、つい手が口にいってしまいます。
「どっこいしょ」の語源は「六根清浄」だという説があります。「六根」とは「眼・耳・鼻・舌・心・意」の働きのこと。人間の認識の根幹です。「六根清浄」とは、六根の執着から離れ、心を清らかな状態にすることをあらわしています。
入峯修行の時は、「懺懺懺悔(ざーんげ、さんげ)、六根清浄」と一同大きな声でお唱えしながら頂へと歩を進めました。急坂で苦しいとき、この掛け声に背を押されて必死に登ったのです。
古老の言によると、「八合目のあたりに座り石なるものがあり、そこに、〈どっこいしょ=六根清浄〉と座って、今まで来た道を振り返り、頂までの行く末を見据えるのだ」とのこと。入峯修行は「擬死再生」がテーマです。八合目ならずとも、山に入れば、足元を見つめ風の声に耳を傾け、来し方を振り返り、行く末に思いを巡らし、そして、力を頂いて山を下り日常へと帰っていく。「六根清浄」の掛け声は、「祈り」を身体に共鳴させ、非日常の世界へと導いていく言葉なのです。
そう考えると、「どっこいしょ」とは単なる老いの表象ではありません。「どっこいしょ」と座った後、少し自らを点検してみませんか。どうぞ「どっこいしょ」「どっこいしょ」と憚ることなく声をだして下さいね。
************************
第五十五回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/11/21
被災地での秋の事業は、講演会。今年は講師として、仏師(ほとけし)村上清さんをお願いしました。村上さんは、平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩の模刻像を11年かかって制作されました。現在、鳳凰堂に国宝と並んでそれらの菩薩像が祀られています。いま大活躍なさっている仏師です。
講演は、仏像の映像を写しながら、制作の過程や技法、造形の意味について、「祈り」をどのようにカタチにしていくかについてお話しいただきました。仏像の造り方や仏師という職業など、全く知らなかったことが、明らかにされ、みなさん興味津々でした。
最後に質問の時間を設けました。 ある方が手を挙げるとこうおっしゃいました。「大学を出たと言われたけれど、何をもっていっちょまえと認められるのですか」と。
多分、質問された方は職人さんなのでしょう。長い間親方のもとで修行をし、お礼奉公を済ませ、そして故郷に帰ってきた、そして「いっちょまえ」と認められたのでしょう。では大学を出たの人はどうなのか。村上さんはこう答えました。「できあがった作品を見て下さい。まだまだと言われば、その通りというしかありません」。
何をもって「いっちょまえ」といえるのか。果たして私は僧侶として「いっちょまえなのか…」、身体を射貫かれるような厳しい問いかけでした。みなさんはいかがですか。
***********************
第五十六回「やすらぎ修行会」プチ法話 2015/12/21
炊き出しにて、隅田川沿いに伸びる高速道路の下を歩きながら、おじさんたちにおにぎりをお渡ししていました。ボランティアの一人が、あるおじさんにこう言いました「何かあったら言って下さいね」と。
会は、長い間活動を重ね、会の名前をいうと、「いつもありがとね」といわれるほど認知され信頼されるようになりました。また、日本各所からお米をお送り頂いておりますし、活動のための資金も頂戴しています。
当日も早くお越し下さる方は、3時前から活動をスタート。炊飯器の中に敷くネットを煮沸消毒し、機材や机を並べ、米をとぎ、炊飯器のスイッチを入れる。初発の作業がスムーズに行かねば、時間内に終えることは出来ません。
その後三々五々ボランティアの方々集まってきます。いわば、すべてをお膳立てをしてくれ、最後のおにぎりを結び、そして配るという、なんとなくやった気持ちになれる部分に関わらせていただく。確かに、多くの方の協力がなければ活動は成り立たない。しかし、活動を下から支える、あまり眼につかない部分に心を向ければ、自ずとおにぎりを配らせていただく感謝の心が生じるはずです。
路上での生活は毎日「何か」が起きているにに違いありません。果たしてそのおじさんに「何ができるのか」。「身の程」を知ることがまずもって大切です。