2016(平成28)年「やすらぎ修行会」プチ法話 第57回~第68回

 第五十七回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/01/21 

 ゴリラと人間とでは、DNAが1.75%、チンバンジーとでは2%しか違わないという研究があるそうです。驚きですね。それでは、人間とゴリラ・チンパンジーとの決定的な違いとは何か?霊長類学者・山極壽一さんは、「待つこと」が人間らしさであるとお話しになりました。

  ゴリラなどは、獲物を捕ったとき、その場で肉を食べてしまいます。すべてを独り占めできるから当然といえば当然です。しかし、人間はそこで食べるのを「待って」、仲間と共に食べることを選択しました。取り分はぐっと減ってしまうのになぜそうするのか。きっと仲間の笑顔や皆が自分を讃えてくれたことを喜びと感じたからなのでしょう。

 「待つこと」とは、現在の価値を未来の成果につなげていくこと。ゴリラやチンパンジーは、失敗すると無駄だとすぐあきらめてしまう。しかし、人間は失敗してもあきらめずに何度でもチャレンジする。その力が新たな技術、要するに進歩をもたらしたのです。

 ところが今の時代は、「待つこと」ができず、すぐにあきらめてしまう風潮がはびこっています。会社では即戦力が求められ、日々の仕事では短いスパンの中で成果を出さねばなりません。そうすると、なりふりかまわず「成果」をあげるか、ミス無くそつなくやり過ごし続けるということになるのでしょう。もちろん、空気はよどみますよね。

 若者の成長を見守ることができにくく、若者もまた苦労の後に達成感を味わうことができにくい社会。私たちは、「待つこと」という最も人間らしい部分を手放しつつあるのに違いありません。

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第五十八回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/02/21 

 人を困難な状況に陥れてしまう条件に、Hungry Angry Lonry Tiredがあるそうです。頭文字を取って「HALT」。空腹、怒り、孤独、疲労は、絡み合ってより困難な状況を作り出していきます。

  過日、日本における子供の「相対的貧困率」が16.3%、6人に一人が「貧困」に該当し、先進国で最悪レベルと報じられました。豊かといわれる日本で…と思われた方が多いと思います。

 池袋で「子ども食堂」を運営している栗林さんとお話する機会がありました。中学生の学習支援をしていたところ、その子は普段から満足に食事をとっておらず、とても勉強どころではないことが判明しました。それでは、家に呼んで家族と夕食を共にしようとすると、「ウザイ」と拒絶。それは、家族団らんを経験したことがないため、その場でどうふるまってよいのか分からなかったからだと後に分かったそうです。収入が少ないと、職を掛け持ちし、長時間働くしかありません。すると、子供と触れあう時間はどんどん削られていく。子どもは、空腹と孤独とを同時に抱えこんでいたのです。

 家族団らんを知らない子どもが親になったとき、自分の子どもとよいコミュニケーションが取れるのか。深刻な問題ですね。親が子どもに伝えるものとは、資本だけでなく、学力、話し方、振る舞い方…。楽しくお話ししながらご飯を頂くというのも、もちろんその一つに数えられでしょう。

 栗林さんは、しばらくその子と二人で夕食を食べ、その後、勉強の面倒を見ていたそうです。徐々に成績も向上したとのこと。命を支えているのは、「食」。「子ども食堂」が各所に広がっていくといいですね。成就院でも実現に向けただいま検討中です。

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第五十九回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/03/21    

 深い森の中を、土の香をかぎながら、木漏れ日を感じながら、葉のそよぎを聞きながら、そぞろ歩くとなんとも心癒やされます。自然とは、美しく穏やかでやさしいイメージがあります。

 しかし、ジグソーパズルのように緻密に構成された森の葉は、少しでも太陽の光を得ようと他の木々とせめぎあった結果でありますし、地中には、少しでも多く水分、養分を得ようと他と争って根を張り巡らしています。「適者生存」の自然界では、静かで激しい戦いが繰り広げられているのです。

 木々にとって、種子を広く遠くに運び、種の繁殖をもたらすことは重要です。それにはどうしたらよいか。まず、種子を風に乗せて運ぶという方法が考えられます。しかし、あまりに非効率的なので大量の種子が必要です。ではもっと効率的にするには?花に蜜を蓄え、やってきた昆虫の体に花粉を付着させ、他の花へと運んでもらう。さらには、胚珠をつつんでいる子房を果実とし、動物に喰われることによって、種子を遠くへと運んでもらう。

 動けない植物にとって動物や昆虫は、まさに「敵」です。しかし、花粉を食べられることを許し、蜜を用意した。また果物という施しをした。植物は利益を先に与えることによって「敵」と助け合うという戦略を立てました。

 「自然界の摂理」とは、なかなか奥が深い。私たちもいろいろ学ぶことが多いですね。

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第六十回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/04/21     

 三月下旬、満開の梅の馥郁たる香りの中、6日間、130キロに及ぶ「気仙三十三観音徒歩巡礼」を行いました。共にお参りしているという柔らかな紐帯を感じつつ、楽しく歩くことが出来ました。

 参加されたある方からお便りを頂きました。結願の浄土寺についたとき、「今日が私のこの世の浄土の道たどりついた日」と思えたそうです。この方は歩く道すがら多くの知り合いに偶然出会いました。行き交う車に乗っていた方、日向ぼっこをしていた方…。

 常膳寺の近くで御接待を頂いた家の方とお話しをすると、20年前に亡くなった母親のことを覚えていてくれました。すごく嬉しかったでしょう。すると、ふとこんな記憶を思い出させてくれました。

 気仙地方には「オガミ様の口寄せ」があります。以前、他界した母が、オガミ様の口をかりて「三途の川は渡りたくなかったがおじい様にむかえられ無事渡った。行く道すがらいっぱいの人に出会い袂を濡らした。浄土の道を歩き終え、良いところに座っている」と話しをしました。「また知っている人に出会った自分の話をして欲しい。忘れられることは寂しいから」とも…。

  亡くなったお母さんが辿った道と、この日、自分が歩いた「祈りの道」とが、浄土寺でお参りしたときに重なり合い、20年前に亡くなったお母さんの存在をまざまざとリアルに感じたのでしょう。亡くなった方に出会う旅、自らの心に出会う旅…。

 別の方はこう仰います。「五年経てば五年目の悲しみがある」と。また、「色々な想いを抱えて生きている私たちは」「自分なりの鎮魂をしていきたいと考えていた」と仰る。それぞれの思いを注ぎ入れる器としての「巡礼」。そして、その思いは「浄化」される。巡礼は、厳しくもやさしいものなのです。

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第六十一回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/05/21   

  秋川リサさんの『母の日記』(NOVA出版)を読みました。シングルマザーであった母親は、「娘なんか産まなければ良かった」と子供の頃から言い続けてきたそうです。でも、モデルとして成功した彼女は家計を支え、そして母のために家を建て、海外旅行もプレゼントした。

 しかし、母が認知症になった後に発見した日記には、娘に対する不平不満や罵詈雑言が延々と記されていました。また、クローゼットの奥には、残高ゼロの通帳と共に毛皮や箱に入ったままのブランド品がぎっしり詰め込まれていました。それでもなお彼女は「怒りや悲しみ焦燥感」を感じつつも、「母に対する情がまだ、十分残っている」と記します。現在彼女が高齢者施設で働いている理由は、母に優しさがもてないのは自分の心が問題なのか、自分の母だからなのかを知りたいから。

 「毒親」という言葉があります。過干渉や虐待によって、自らの分身としての娘を過度に私物化してしまう人をいいます。愛してもらいたい人に、愛してもらいたかったときに、愛してもらえなかったという心の傷。母を嫌いなのだが、愛してもらいたいというアンビバレンス。

 「解毒」するには、まず自分の感情を発見し、過去は変えられないことを認めること。秋川さんも過去と向き合い、我が心を掘って掘って掘り下げている。でもコツンと納得できない。心の奥に染みついた生き辛さという刻印はなかなか取り除くことは出来ません。

 彼女が救われたと感じたのは、飲み屋の常連さんが大変だと知りつつも明るく楽しく振る舞ってくれたこと、友人が電話の前でお酒を飲みながらずっと話を聞いてくれたこと、娘が介護を協力し続けてくれたことだそうです。いつも見守ってくれているという安心感。私たちも学びたいですね。

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第六十二回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/06/21    

 数十年ぶりに小学校の卒業アルバムを繙ました。いや懐かしいです。「みんなの長所・短所」というペイジには、「おもしろい」「根性がある」「おっちょこちょい」「あきっぽい」などの言葉が並んでいます。ちなみに私は、「話が好き」「すぐおこる」でした。齢を重ねた今、このような牧歌的な言葉を記すことは出来ません。人の心とは何層もの入れ子構造になっていることを知ってしまいましたから。

 役者さんは、他者の人生を生き、そして演じます。ひとつの笑いにもどのような心が働いているのか。あきらめ、あわれみ、あざけり、へつらい…喜劇役者の藤山直美さん曰く「こうしたら悲しさを表現できる、こうしたら温かい人柄に見えるという技術は学ぶことはできますが、『情』とは毛穴からでるもの、心の矢印がお客さまに向いたとき『情』を醸しにじませることができる」と。芝居をしつつも芝居をしない。自然体のように振る舞いつつも芝居を少し残しておく。こうなると、もうひとつの境地です。

 役者の心の深さと幅とが問われる芝居。役者にとって日々の鍛錬・訓練とは箸の上げ下ろしのように自然と出来なくてはならないものと仰います。努力しようと思わなくとも普通に出来るのが才能だと仰います。芸を肉に食い込ませ、日々を芸に染め上げていく。その積み重ねによって、他者の心のひだに分け入って、現実よりもよりリアルに演じふるまうことができるのでしょう。

 藤山寛美師曰く「芝居とは、水面に人差し指で字を書くようなものだ」と。はかなきものであるがゆえの一度きりの舞台の大切さ。鍛錬・訓練の重要性。深いことを言い当てていますね。

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第六十三回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/07/21   

  成就院の番犬チルが、6月11日、身まかりました。15歳。思い出を少しばかり。

 ①家に帰るとチルが門の向こうに座っています。中に入るといつも庭の向こうにダーッと走っていきます。そしてこちらに走ってくると素通りです。②ちょっと目を離した隙に書院や本堂へ走り、うんちやおしっこをします。駆けつけると「ウー」と逆ギレします。③他の犬の頭をなでているとき、ふと見ると私におしっこをかけようと足をあげています。④楽しく帰ってくるとガブっと噛まれました。まだ足に歯形が残っています。⑤賽銭泥棒が入ったとき、「助けて」というような激しい叫び声で鳴いていました。

  一年ほど前から散歩をしなくなり、寝ていることが多くなりました。①行方が分からなくなって探すと庭の植え込みの奥や物置の下にはまって動けなくなっていました。②ウクレレで演歌を弾くと立ち上がり、部屋の隅に体を預けるとガリガリ前足で壁をひっかくようになりました。③寝方が分からずガリガリやっているので、抱っこをしてあげるとすぐにスヤスヤ寝るようになりました。④頭をなでても嫌がらないようになりました。⑤足元に寝ていると、顔を足の上にちょこんと乗せるようになりました。

 コミュニケーションがうまく取れないので、チルもどうふるまってよいのか分からなかったのかもしれません。でも、いろいろなものを見事に手放し、かわいく老いました。最後にしっかりかわいがることが出来て良かったです。

 抱っこをして門前にいると、多くの方々から頑張ってと声を掛けてもらいました。よく吠えるので「ガウガウ」と名付けていたOLさんがいました。飼い主の知らないところで結構人気があったようです。

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第六十四回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/08/21    

 東日本大震災の後、黒く濁り、がれきが堆積した海は、もう死んでしまったのではないかといわれました。しかし、海は驚異的な回復力を持っていました。普通は2年ほどかかるホタテが1年で出荷できるほどに育ちました。津波は海底からヘドロを掻き出し、新鮮な酸素を海へと供給したのです。

 1960年代、プランクトンの大量発生で生じる赤潮が問題となりました。気仙沼で牡蛎の養殖業を営む畠山重篤さんは、ちょうど家業を継いだとき。赤潮を吸った牡蛎は売り物になりません。畠山さんは、海水汚染の原因は、人間の側からもちらされているのではないかと考えました。いつもとは逆に陸へと目を向けると、生活廃水、工業廃水が川をつうじて海に流れ込んでいること、水源地の上流の森が伐採されて荒れ果てていることに気がつきます。

 そこで平成元年より「森は海の恋人 植樹祭」を実施、35,000本を越える広葉樹を水源地の山に植えてきました。多種多様な広葉樹は、多くの実をつけ、昆虫、鳥、動物という多くの命を育みます。川から海へと栄養が流れ込み植物プランクトンを育てます。それを動物プランクトンが食べ、小魚が食べ、魚が食べ、そして魚を人間が食べる。山の木々から魚へそして我々人へと綿々とひとつながりになっている。まさに人間も自然の一部でしかありません。

 山、海、人をトータルな視点で研究する機関もない当時、活動を実施するためには様々な困難があったでしょう。畠山さん曰く、「人の心に木を植えなければならない」と。山々には木が茂り、豊かな海が戻り、賛同者が増え続けています。「思ったことはとりあえず行動!」頭が下がりますね。 

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第六十五回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/09/21     

 ひとくちに「武士」といいますが、大きく、侍・徒士・足軽以下の三層に別れているそうです。さらに家の格や役職で分化している。その差異は、袴が穿ける人、刀を挿せる人、馬に乗れる人、お辞儀をするとき草履を脱がねばならない人など、着衣や持ち物、行為によって可視化されていました。

 差異は秩序の安定条件です。それは相互監視のシステムが働くから。格下の者が華美な服装をしていないか、自分は分相応の振る舞いをしているのかなどなど。為政者にとっては都合がよいのでしょうが、周囲の目をいつも気にしながら暮らすのは窮屈そうですね。

 先日「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」に行きました。漆黒の闇の中を1時間、白杖をトントン付きながら周囲を手で探りながら、様々なシーンを体験します。視覚が閉ざされることで、聴覚、臭覚、触覚が鋭敏になります。落葉を踏みしめる音、竹の香り、畳の手触り…。普段は目で認識しすぐに「スルー」してしまう空間のひとつひとつの構成要素が、意味あるものとして感じられて新鮮です。

 基本的に知らない人同士最大8人がワンユニット。それぞれをニックネームで呼び合うというのがルールです。「ここにいるよ」「段差に気を付けて」「何の香りかな」、声を掛け合いながら闇を探検すると、終わったときにはすっかり数年来の知己のよう。暗闇の中では立場や年齢などはまったく関係ありません。

 日々の暮らしも、フラットな横の関係でみなさんとお付き合いができれば、楽にそして楽しく過ごせそうですね。
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第六十六回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/10/21   

 10月2日、ミックス犬のももちゃんが成就院の一員となりました。犬のしつけの本を読んだところ、身まかりましたガウガウ犬のチルには、申し訳ないことをしたなと反省しきりです。

 生後2ヶ月でやってきたチルを、家族それぞれが可愛がりたいときに可愛がる。犬は「群れ」で暮らし、序列を守って生きてきた動物だそうです。まだ小さいうちに親から離されたチルは、いろいろな行動や言葉に翻弄されどう対応して良いか分からなかったのでしょう。

 その結果、家族という「群れ」の中で主導的な立場になったように思ってしまいます。家族にマウンティングをする、椅子の上に座る、散歩で先頭を歩く、人が食べている物をほしがるなどなど。果ては噛む。家族の中で、しつけに一貫性を持たせ、遊びとしつけの区別をつけるのが大切だと知りました。楽しく帰ってくると不機嫌だったのは、もっとベタベタ可愛がってもらいたかったのでしょう。

人の目をかすめて、書院でおしっこをしたり本堂でうんちをしたりというのは、そそうをしたとき厳しく叱ったことがあったのでしょう。そうすると今度は隠れてするようになる。叱責とは、叱り責めること。嫌な思いを抱くだけで「しつけ」にはなりません。ほめて育てるのが犬の上手なしつけ方だそうです。

 犬も「自立」することが大切です。犬の場合は、「群れ」の中で周囲と良好の関係性を作りあげ、日々を楽に生きていく術を身につけること。人間が「自立」することにももちろん通じますね。

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第六十七回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/11/21    

 お堂いっぱいに広がる大きな念珠を、大勢の人が輪になり、ひとつひとつ繰りながら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」とお唱えします。その念珠の珠は直径10センチもあろうという大きさ。これを「数珠繰り念仏」といいます。お寺の行事で、またお通夜の前に、所によっては行われています。

  声とは身体に響かせ増幅して発せられます。そして自ら発した声を自らの耳で聞く。声とは耳で聞くだけではありません。お唱えする声は堂内に反響し、他人の声と重なり合い響き合う。荘厳さを増した声の束は、ともにここにおり、ともに祈っている同士という一体感をもたらすに違いありません。

 声とはあちら側とこちら側という隔てを溶解させる、非日常的世界へと誘う手だてであるといってよい。身体に直接訴えかける強い強い力を持ったものです。

 法会に列した人々は、ご本尊や亡き人の存在を感じながら、声を届けたい、声を聞きたいと願ったのではないでしょうか。

 御真言を皆でお唱えする「やすらぎ修行会」も同様の試みです。みなさん自他の所願成就を祈念しながら、一心に「光明真言」をお唱えし、御信心を深めましょう。

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第六十八回「やすらぎ修行会」プチ法話 2016/12/21   

 『一休咄』に、正月を迎え華やいでいるとき、一休さんが「ご用心、ご用心」と杖の頭に骸骨を付け街を歩いて回り、「門松は冥土の旅の一里塚うれしくもありうれしくもなし」という歌を詠んだというお話が載っています。諸行無常を自覚せず、浮かれ暮らしている人々を諫めたというお話です。

 『死 Death in Nature』宮崎学写真集(平凡社)は、シカやタヌキの死骸が、土に還っていく様を固定カメラで追った写真集です。なきがらが動物や鳥たちに食いちぎられついばまれ、形を変えていくのは、非常にグロテスクではあります。

 雪上に横たわるシカには、まずタヌキが、その間隙をぬってテンがやって来る。そしてキツネ。20日間で骨だけとなり、半年経つと痕跡さえ無くなってしまいます。夏の場合は、腐食が進み死骸が病原菌の巣窟となるので肉食動物は近づきません。すると昆虫たちが活躍し、病原菌の増加・拡散を防ぐ役割を果たしてくれます。自然の摂理によってそれぞれの出番がきちんと決められている。

 「〈自然の死〉は細菌や微生物、それに虫たちによって大地を肥やし、植物をはぐくみ、動物たちを育て、自然の営みをなめらかに展開させている」と宮崎さんは記します。死と生とは連続している。人間もその大いなる命の循環の一部です。しかし、死に行くさまは我々の生活から遮蔽され、死が「新しい生命に引き継がれて」いくという実感がなかなか得られません。

 生きる物たちの滅び行く姿を正視し、私が「今」生きているということに思いを致しましょう。

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