2020(令和2)年「やすらぎ修行会」プチ法話 第105回~第115回
第105回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/1/21
毎年二月、お味噌作りの会を行っています。前日に大豆を水に漬けてふやかし、朝から5時間ほど煮ると指でつぶせる程度の柔らかさになります。潰した大豆を塩切り麹と混ぜ混ぜし、瓶に仕込めばできあがり。冬になるまで熟成させるととても美味しいお味噌に。種も仕掛けもありません。
毎朝味噌汁を飲む度に、「うまいっ」と感動し、「ああ、豊かな食事だ」と心の中で呟きます。以前、味噌汁は漫然と飲むものでしたが、今は「小さな幸せ」を感じさせてくれる大切なものとなりました。みんなの愛情が込められた味噌を日々味わえるのは、「なんという豊かさだ」と思いませんか。
味噌造りには麹が大切。当初はスーパーで売っている「板麹」を使用しましたが、「生麹」というものもあると聞きました。ただし一週間で麹が死んでしまうとか。「生麹」にして風味がぐっと増しました。また、米麹でなく麦麹もある。麦味噌は、いつもよりやさしい味わい。それに米麹と麦麹のミックスもある。大豆も替えれば、組み合わせは無限ですね。今は「一年熟成」の茶色の味噌を食べてます。
初めは、友人たちと作りましたが、今は、ボランティア仲間や檀家の方々、モグモグ食堂に来てくれる子たちなど3回作っています。秋には一品持ち寄りで「お味噌お披露目」会という名の忘年会を。オカリナを習っているという人が先導し、みんなで歌を歌ったこともあります。楽しいですね。
お味噌など、どこにでも売っているもの。でも自ら味噌作りをすることで、生活に「深まり」や「広がり」がもたらされました。「小さな幸せ」とは、何気なく足下に転がっているものなのでありましょう。ちょっと辺りを見回せば楽しいことが見つかるかもしれのせん。
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第106回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/2/21
小学校3年のある日、給食当番がバケツに入ったキャベツを取り忘れてしまいました。そこで昼休み教室にいた者が食べることに。私も列に並び、両手に山盛りのキャベツをそのまま食べました。キャベツの風味が口いっぱいに広がりとてもおいしかった。あれからキャベツが大好きになりました。
キャベツの花を見たことがありますか。収穫時期を過ぎた後、茎が伸び、菜の花に似た黄色い花を咲かせます。我々が食べるキャベツは「葉」の部分。キャベツは、葉が幾重にも重なり合い玉のような形をなしています。植物は葉緑体で光合成をしてエネルギーを得ています。そう考えると内側の葉には光が届かず、光合成ができにくい。生きていくには非効率的な形態だと思いませんか。
もともとキャベツは、ケールのような一枚の葉状だったそうですが、人間は長い年月をかけ品種改良を加え、今のような球状となりました。そうすることで、葉の数が増し収穫量がぐっと増えましたし、日持ちもよくなり、洗う手間も少なくなり、運搬も楽になりました。まさに「改良」ですね。
自らの姿を変容させられたことをキャベツの側から意味づければ、人にたくさん食べてもらうことによって種をたくさん残すための「生存戦略」であったということができるでしょう。
今の時代、「自分らしく生きよ」「自分のやりたいことを探せ」と大人は子供たちに迫ります。しかしこれらは「呪いの言葉」と言ってよい。人とのかかわりの中でしか生きていけないとすれば、他人の求めるものに姿を変えながら生きていくというのも、ひとつの生き方です。
みなさんの「自分らしさ」とは何でしょうか。「やりたいこと」とは何ですか。
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第107回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/3/21
「末期(まつご)の目」という言葉があります。人はいよいよ最期を迎えるという時、世界が美しく見えるといいます。死の淵から今生を眼差すと、いろいろな束縛から離れ、ありとあらゆるものにはなかさ、尊さ、そして愛おしさを感じるのでありましょう。
また3月11日が巡ってきました。東日本大震災が起きた後、テレビからは原発が爆発する映像が繰り返し流されました。昼夜を問わず東北の方角に飛びゆくヘリコプターの音が聞こえてきます。ああ、ここも放射能で住めなくなり、私の人生もここで強制終了。ありありと自らの死を意識しました。
そんな時、公園に行くと、遊んでいる子たちの笑顔が、思わず涙ぐんでしまうほど、かわいく、愛おしく、尊いものとして私の眼に写りました。そして「この子たちの命も…」と心が震えました。みなさんはこんな経験ありませんか。
でも一週間、二週間と時が過ぎてゆき、命の危険が目の前に迫っているわけでもないと思うようになると、子どもを見て「あわれ」を感じ、心震えるということは霧のように消えていきました。
考えてみれば、9年前も今も変わらず私たちは「諸行無常」のただ中を生きています。私には、明日も一年後も十年後もあると思っていますが、「末期」がいつ訪れるかは分かりません。
かけがえのないこの日この時の、尊さ、ありがたさをかみしめて過ごせば、日常のありふれた風景は、きっとキラキラ輝いて目に映るに違いありません。
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第108回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/4/21
みなさまご存じ、奈良の大仏さま。聖武天皇が、政変や天変地異などの社会不安を、仏法の力で取り除き国を護ろうと「発願」、多くの仏師、鋳師らが力を尽くし、たくさんの方が「結縁」し、インドの高僧・菩提僊那を導師として「開眼」を行い、奈良時代から今日に至るまで、数限りない方に「信仰」され、あのような端厳たるお姿で、今、おはします。
気仙での秋行事として、君島彩子さんを講師として、「にぎり仏」を皆で作りました。30人の参加。「仏像を作る」には、「発願」「結縁」「開眼」「信仰」の四つの要素が必要です。まず、集まった皆さんに、願い事を紙に書いてもらい、楊子に巻き付け丸めると、木の粉が入ったかぐわしき粘土に埋めます。そして、ああでもないこうでもないと粘土をこねこねしながら、仏像を形作っていきます。完成後に私たち僧侶とともに読経をし、願成就を祈り、お仏壇でお参りして頂くようお願いしました。
にぎり仏には、亡き方への御回向や自身の病気が治るように、家族が幸福に暮らせるように、平和な社会が訪れるようにと様々な願い事が込められましたし、お姿はかわいらしいお地蔵さま、りりしい観音さまあり、個性あふれる仏像が完成しました。奈良の大仏さま同様、立派な「仏様」です。
今春の徒歩巡礼はコロナで中止に。でも地元の方数名が車で気仙三十三観音をお参りしてくれました。共にお参りをしたメンバーの一人が病を得て、ただいま自宅療養中です。地元の方は、それぞれの霊場から、毎日なでなでお参りし鈍色に光っている「にぎり仏」を入れて、写真を送ってくれました。気持ちはあなたと一緒にお参りしていますよ、早く元気になってくださいね、と。
私たちの活動は、「支縁活動」をうたっていました。が、私たちが地元の方に支えられるようになりました。結ばれた縁を互いに支え合う、ありがたいことだ、と観音さまを念じて手を合わせました。
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第109回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/5/21
「向こう三軒両隣」、普段世話になったり世話をしたりという隣近所の方々をいいます。といっても、昨今のプライバシーを尊ぶ風潮や夫婦共稼ぎで家にあまりいないなど、ご近所の連帯感が薄れており、この語は「古語」となってしまったのかもしれません。そもそもマンションには「向こう三軒」がありませんね。
知り合いの方で、マンションの両隣のみならず、エレベーターホールまでの廊下の掃除するのを日課としている方がいます。でも「誰からもお礼の一つさえ言われたことがない」と不満げです。一度、同じフロアーの方からお礼を言われ「涙が出るほど嬉しかった」そうです。
この発言の背後には、「私は良いことをしているからお礼を言われて当たり前である」という思いがあるようです。自分は評価されて当然だという思いがかえって自らを苦しめてしまう。これも「承認欲求」を巡る言動といってよいとえるでしょう。イライラするのなら無理に行うことはありません。
「涙が出るほど嬉しかった」とは、他者に自己を「承認」された喜びを表現しているのです。別に頼まれしているのではない。「やりたい」と思ったら、何かを言われようと言われまいと淡々と続ければよいのです。でも、まあ、見かけた人はお礼の一つぐらい言っても良いと思いますが…
世間には、自分が「承認」されるという機会が少ないという方がきっと多いのでしょう。高圧的な態度、知識のひけらかし、などなど。「承認欲求」を巡っての言動が私たちの身の回りにも充ち満ちています。もしかしたら私もその一人なのかもしれません。一度身のまわりをぐるりと見回してみましょう。
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第110回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/7/21
以前スーパーの特売にて、100円で売られている卵パックを見て、どうしてこんな値段で売れるのかと疑問に思ったことがありました。同様の思いを抱いた方も多いのではないでしょうか。鶏舎の維持代、鶏のえさ代、人件費、卵を洗浄しパックに詰め、トラックで運び、そして店頭に並ぶ。小売店の利益も上乗せして100円。ということは、出荷時いくらで下ろしているのでしょうか。
コロナ禍の中、お買い物は3日に一度にしてほしいとの要請が。そんな時、友人と電話で話していると、食品や日用品の宅配を利用しているとのこと。早速、チラシを取り寄せてみると、野菜はカットしてセットになっていたり、揚げるばかりに手が加わっていたり、レシピも付いていたりと至れり尽くせり。牛乳や油、トイレットペーパーなど重い物、かさの張る物が家に届くというのは楽チンですね。
その友人は、減農薬や無添加の食品を扱った、もうワンランク上の会社を利用しているそうです。そちらのチラシを見てみると、やはり結構なお値段が記されていました。「値段が結構高いよね」と言うと、「少々高くても、まじめな農家を支援していると思って利用している」とのこと。
確かに同じようなお品なら安いほうがおトク。でもその分誰かが損をしている。果たしてそれでよいのか。自分の仕事に矜持を持って頑張っている人に少しだけ「お布施」をする。そう考えると、日常の「消費行動」が少し相対化されるのではないでしょうか。
ちなみに食品の宅配は、申し込み多数のため当分新規の受け入れはしないとのことでした…。
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第111回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/8/21
スペインも新型コロナウィルス感染者がとても多い国の一つですが、感染者が陰性となって退院してくると、近所の人たちが花束を持って来てくれたり、家の外でお祝いの歌を歌ってくれたりするのだそうです。だいぶ日本とは、様子が違いますね。
新型コロナの大規模な院内感染を出してしまった「永壽病院」は、私が出た小学校の跡地に引っ越してきた病院です。もちろんご近所。幾たびも報道されたので、この東上野の地も、すっかり有名になりました。あちこちから「お寺から近いですが大丈夫ですか」と電話を頂きました。余り気にはしていませんでしたが、温かな心をお掛け頂き嬉しかったです。
近所の人がちょっと遠くのスーパーに行ったとき、「あの人、東上野の人だから気をつけた方がいいわよ」と言う声が聞こえてきたそうです。でも考えてみれば、そう言った人も、もう少し遠くに住む人からは、「あの人、台東区に住む人だから…」と言われていたでしょうし、そういった人も、「あの人、東京の人よ…」と言われたことでしょう。「排除する側/される側」は、その設定によって一変してしまうものなのですね。
自らを取り巻く状況が緊迫してくると、「もっと弱い立場の存在」を作り出し、そこにイライラをぶつけてしばしの安心を得る。そのような言説が巷にはあふれています。
お寺の庭に遊びに来てくれる保育園の子どもたちが、遊びに行った公園から「永壽病院」に向かって、声をそろえ大きな声で「がんばって下さい」とエールを送ったそうです。いくつもの病室のカーテンを開いて、手を振ってくれた人がいたとか。子どもの力はすごいですね。
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第112回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/9/21
私が子どもの頃、カステラは、ザ・「到来物」。箱からとり出し包丁で切り分けた後、底の紙についている茶色いザラメをこそげ、濃厚な甘みを味わいました。「到来物」という言葉は、長い旅をしてきたその「道のり」、そして良く来て下ったという「喜び」が込められているように感じます。最近カステラはいつでもコンビニで購入できる物となり、ありがたみがだいぶ薄れてしまいました。
50年前のお話だそうです。その方は、数ヶ月京都のお寺で暮らしたことがあるとか。京都での暮らしにあこがれたのでしょうか?それとも、環境を変えたい何かが起こったのでしょうか?そのお寺は、宿坊もやっていたので、午前中は、お勤めの後、お食事作りのお手伝い、そして庭や部屋のお掃除をしたそうです。山々の緑に囲まれた、静かなお寺の中での生活。確かにあこがれますよね。
お茶の時間での出来事。「そうそう、カステラを頂いたので食べようか」住職さんに言われ、棚から持って来たカステラを切ろうとした。久々のカステラにワクワクです。「家では分厚く切っているけれど、薄めに切った方が上品かも」しゃれたお皿でお出ししたところ、カステラは体をへにゃっと横たえてしまった。住職曰く「カステラは、きちんと立つような厚さで切らなくてはいけないよ」と。
その方は、「あの時、どれくらいに切ればよろしいでしょうかと伺えば良かった。でも若かったからわざわざ聞くのが恥ずかしかったし、自分の家が正しいという思いがあったかも、他人の家のご飯を食べるという経験は大切なことですね」と仰いました。
若い頃のほろ苦い一コマ、こちらもほのぼのとしてしまう、「昔話」を聞かせて頂きました。
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第113回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/10/21
平安時代の貴族社会において、女性に懸想した男性がまず試みることは、和歌を贈ってその思いを伝えることでした。度々歌が届けられ、誠意を感じるならば、女はようやく歌を返します。その後、二人は歌のやりとりを重ねることによって相手との距離を徐々に縮めていくのです。
男女の和歌の贈答では、男が自分の深い愛情を歌い上げるのに対し、女は混ぜ返したり、揚げ足を取ったりと、反発して男の愛情の頼み難さを訴えるというのが、贈答歌の「作法」です。
なぜ昔の人はそんな「しち面倒」なことをしたのかと不思議に思う人も多いでしょう。その理由は言葉に「余白」を作るということ、その「余白」によって次の和歌を紡ぎ出されていく。もし「私もあなたのことが…」と相手の気持ちに対しまっすぐに返歌したとしたら、恋の物語は完結してしまいます。
では「余白」ない言葉とはどういうものなのでしょうか。それは強く断定した言葉なのではないでしょうか。そんな言葉を投げかけられたとき、私たちはどう対応してしまうのか?ひとつは「黙り込む」、反論すると喧嘩になりますから。もうひとつは「きれる」、もっと強く言い倒すしかありません。「余白」のない言葉には、相手を理解する機会を作る力も、相手と共に生きようという力を生み出すこともありません。
相手の言葉の「余白」を味わう、そんな少しのゆとりが欲しいですね。
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第114回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/11/21
船木威徳先生のクリニックを訪れる方の中には、「コロナが怖くてしかたがない」「これからどうなるのか、不安でしょうがない」と訴える方が幾人もいるそうです。でも、「いったい何が怖いのですか」と尋ねると、どうもその正体は、はっきりしない。
先生が医師になりたての頃、何に「恐怖」を感じたのか。目の前で声を出して苦しむ人や意識がなく状況がどんどん悪化していく人、血を吐いている人、すでに亡くなっている人を見ることほど怖いことはなかったと言います。
では先生が「恐怖」を克服するために行ったこととは何か?それは患者を「『怖くても』よく見る、『怖くても』もっと近づいてみる、『怖くても』よく触り、よく『感じる』」ということ」。よく見ることで、今起こっていること、その結果を冷静に見つめることができ、「次にどうするか」が考えられるようになる。
「恐怖」から「不安」が生じ、さらに大きな不安を連鎖的に生み出してしまう。「不安」を克服するには、そのものに「もっと近づいて真実とは何かをできる限り調べること」が重要だとおっしゃいます。
報道の渦に翻弄されてしまうと、自ら考える力を奪われてしまいます。「いま」をじっと見据えましょう。
「王子北口内科クリニック院長 船木威徳先生のFB」より
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第115回「やすらぎ修行会」プチ法話 2020/12/21
大仏師定朝とは、藤原道長の時代に活躍した人。私たちが阿弥陀さまと聞けば、薄い衣を身にまとい丸いお顔に細い目の、温和で優美なお姿を思い浮かべます。そういう「形式」を創造したのが定朝。今でも、定朝による比率や技法が用いられ仏像が作られています。すごい方ですね。
友人の仏師さんは、ボルテージが上がるとこう言います。「私は定朝を越えて見せますから!」と。仏師という生き方を突き詰め、大きな仕事を重ねている彼、人一倍、定朝の偉大さ、そして自分との距離も分かっているに違いありません。でも、あえてそう言葉に出すことで自らを鼓舞しているのでありましょう。
「半沢直樹」で人々を魅了した、柄本明さん堺雅人さんとの対談を拝見しました。柄本さんは、ある友人からの「職業にはコンプレックスを持つべきだ」という発言に感心したと話し、役者とは「他人が書いた言葉をただ読んでいるだけ」と仰いました。堺さんも、ただ「役者らしく振る舞っているだけ」で「ニセモノ感があり」「ほめられたら嬉しいけれど実感がない」と仰います。
人は自らの仕事に「誇り」を持てと教えます。でも一途に道を突き進み深まってくると、「わかっているふりをしている」自分に気づくということなのでしょうか。ぐるっと回って「コンプレックス」に戻ってくる。それらはコインのウラ/オモテ。どちらも自らの背中を押してくれる手を引いてくれる思いなのでありましょう。
柄本さんの好きな言葉は「わからない」だそうです。達人の言葉は深いですね。