2021(令和3)年「やすらぎ修行会」プチ法話 第116回~第127回
第116回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/1/21
高校教員を10年前に退職し、住職となりました。退職した当時を思い起こすと、多忙な日々から、突然何をして良いやら分からない、「のっぺりした日常」のただ中に投げ出され、自分という輪郭が溶解してしまうような不安のただ中を生きていました。
コロナによる巣ごもり生活もだいぶ長くなりましたね。心細く不安な日々を過ごされている方が多いことと思います。その思いは、教員を辞めたあの時の私の思いと重なるところがあるかもしれません。
閉塞的な時間・空間を生き抜く智恵を宇宙飛行士に聞いてみましょう。長い期間、逃れることのできない狭い空間で生活しなくてはならないのですから。
宇宙での生活で大切なこととは、まず「日課」を作ることだそうです。その日に行うべきことを決め、それを淡々と重ねて行く。そして、それを一週間、一ヶ月と広げていく。いつ終わるか分からない時の中で、予想通りになる確かなことを作り出していく、それが自らの拠り所となるということなのでしょう。時の流れに刻みを入れることで、私が生きているという実感を確認することができるのでしょう。
新聞記事(2011/1/17)にあった、「コロナ禍で始めたこと」の5位には、「行動記録をつける」こととありました。これは今日一日の「わたし」を振り返り確認するという行為なのです。
「日課」を考えるとき、新たなチャレンジを組み入れてはいかがでしょうか。数年後の種まきになるに違いありません。なんとか、暗い心をいなしこなして過ごしていきましょう。
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第117回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/2/21
ぬれながら 我が身にしみる 冬の雨
るてん旅 汚れ汚れて 身をせめる
えさ取りも 楽じゃないぞえ 賞味切れ 路上文芸総合雑誌『露宿』 「路上いろは歌留多」より
作者の風来坊さんは、その日に起きた出来事を句に表し書きため、「路上いろは歌留多」を作りあげました。来し方への思いや、路上でのままならぬ暮らしをさらりと歌い上げています。心にストレートに刺さっていく言葉の塊ですね。
この「歌留多」は段ボールに書き記されていたそうですが、是非全部読ませてほしいとお願いすると、紙にきれいに書き改めて渡してくれとのこと。その時、とても嬉しそうだったと伺いました。
路上生活を余儀なくされている作者にとって、今、自由に「選択」できることのひとつは、文字を綴ること。彼にとって「表現」することとは、その日自分が生きたという証を残すこと、そして自らが他者へと繋がっていく術を得るということ。人は「表現」することによって自らの「喪失」を埋めていくことができるのでしょう。
「表現すること」という言葉を私たちの日常に落とし込んでみましょう。インスタを投稿する、「いいね」を押す、カラオケを熱唱する、ダンスを披露する……。私たちの存在も「表現すること」によって支えられていることに気づかされます。誰しもが何らかの「喪失」を抱えもって生きているのですから。
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第118回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/3/21
中島敦『名人伝』は、趙の邯鄲に住む紀昌が、天下一の弓の名人を志すという物語です。紀昌は、名手・飛衛に入門し奥義を習得、さらなる高みを求め甘蠅老師を訪ね研鑽。九年後、木偶のようになって帰ってきた紀昌を、住人たちは天下一の名人と絶賛しますが、「至射は射ることなし」と言って技を披露しようとはしません。晩年には弓という名も、使い方さえも忘れてしまったとのこと。
「生と死をみつめるシンポジウム」に参加してきました。グリーフ(悲嘆)を抱える人をいかに支えたらよいのか?私たちは悲しみにくれる方をなんとか励ましたいと、あれこれ必死に考えて言葉をかけます。しかし逆に相手の心を苦しめ傷つけてしまうこともある。自分の基準で判断したり評価してはいけないということ。ただただ、最後まで話を聴き、支えることが大切だと説かれます。
「ただ話を聴く」といいますが、この「ただ」というのが難しい。グリーフに関わる方は、理論を学び支援する側/される側に分かれたロールプレイなどでコミュニケーション・スキルを磨いています。
パネリストのご住職のお寺に、娘さんを亡くしたご両親がやってきました。母親は力を落とし、父親は「親不孝者だ。身勝手だ」と大声でののしるばかり。ずっとお話しを聴いていたご住職は、興奮している父親の背中にそっと自然と手を置いた。「その行動が正解だったのかは分からない」けれど、その父親は突然号泣し出したそうです。
知識を蓄え技を磨き、そしてそれらを手放す。そういう境地があるようですね。「日暮れて道遠し」という言葉がありますが、ただ悲観しているばかりでなく、1mmでも自らを深めていきたいものです。
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第119回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/4/21
甲州の古部山に一人出かけました。古部山は、地図にそれと名が記されていない、静かな山。道標もなく、道すらはっきりしていないので、地図を読み、周囲を観察し、そして五感を働かせてルートを見出さなくてはなりません。「いま」の私の知識・経験が試されるのはなかなかスリリングです。
山は数日前に降った雪でうっすらと雪化粧をしています。雪がまだらに残っている尾根を、藪の薄いところつき、はねた枝を顔に受けながらかき分け登っていきます。枯葉に足を滑らし、雪解けの泥に足を取られ、ふくらはぎが痛くなってきます。道を歩いていると道のありがたさに気づきません。
空はいよいよ青く、空気は澄み渡っています。遠くには、南アルプスの山々、八ヶ岳が雪の塊となって見えます。左手には堂々たる富士山。静けさに耳を澄ませ、暖かな風に春を感じ、山を味わいます。山頂には「古部山」と書かれた板きれが。この日山中で見かけた唯一のしるべです。
頂からは西に延びる尾根を瘤を乗り越え乗り越え緩やかに下ってきます。尾根は急に下っているので、おかしいと思い登り返しました。平坦なところに戻ると、樹の幹に「なため」がありました。
「なため」とは、幹に鉈(なた)などの刃物で皮に切り目を入れて道標の代わりにしたもの。「先人」は、尾根が急に曲がったところ、平坦で方向がよく分からない所に来たとき、後からくる人がおそらく目をやるだろうというあたりにそっと「なため」を残す。「後人」はこの辺りにきっとしるべがあるだろうとふと目をやる。この阿吽の呼吸。柔らかなコミュニケーション。その人と私とは間違いなく繋がっています。
「なため」に導かれ下界に辿り着くと、里は梅の花盛り、辺りには馥郁たる梅香が漂っていました。
山で道に迷ったとき行うのは、まず腰を下ろすこと。心を落ち着かせ辺りを見渡せば、「なため」が目に入るかもしれません。これは日常においても同様です。
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第120回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/5/21
私から、両親(2人)、祖父母(4人)、曽祖父母(8人)とさかのぼって、10代前になるとご先祖は計算上1024人になるそうです。先祖の皆さん一人一人は、遠く霧の向こうにいる存在で、具体的な像を結びませんが、多くの方々とのつながりがあって今こうしてここにいることができる。不思議ですね。これを読んでくれている方とも、私とどこがで繋がっているのかもしれません。
過日、檀家の方に新調した過去帳に先祖の戒名を書き改めるよう依頼を受けました。その数74人。とても一日で書き切ることはできません。お祖父さんか曾お祖父さんが、ご先祖をお参りしたい、大切にしたいと思い、いろいろ調べたのでしょう。
「初代」と記された方は、お名前も、お住まいになっていた場所も、お仕事も分かりませんが、お戒名と寛政年間の没年が記されていました。果たしてどんな時代だったのでしょうか。没年には文化、天保、安政、万延そして明治、大正、昭和と元号が並んでいます。飢饉や地震があったり、明治維新の大混乱があったり、そして戦争があったり…その時その時のご苦労があったのでしょう。
過去帳に記されたお戒名とは、その方がまさしく生きていたという証。具体的な像は結べないものの、お一人お一人が重ねて来た喜怒哀楽に彩られた人生が凝縮している。
「過去帳」とは、ご先祖が確かに存在し、「いのち」がつながっていき、そして今こうして私がいる、そんな時の「厚み」、そしてありがたさを感じさせてくれる大切なものなのです。私たちも、もちろん後代に何にかを伝えるべき存在なのですね。
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第121回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/6/21
30年ぶりに高校の同級生と会ったときのこと。クラス中が盛り上がった出来事の詳細をノリノリウキウキで話すと、皆から「よく覚えてるね~」と感心されました。私の頭の中には、あの時の映像が「保存」されており、当時の景色や空気感と共に友だちの言動などが「再生」されるのです。といってもごく短時間ですし、そう多く「所蔵」されてはいませんが…。このデメリットとしては、嫌な記憶が「再生」されると、あの時の「怒り」や「苦しみ」が蘇り、あの時を追体験してしまうことです。
参加者を3つのグループに分け、シロクマに密着した映像を見せ、Aグループには「シロクマのことを覚えておいて下さいね」と言い、Bグループには「シロクマのことを考えても考えなくてもいいですよ」と言い、Cグループには、「シロクマのことだけは絶対考えないようにして下さい」と言う実験を行いました。さて、一定の期間をおいてどのグループが一番シロクマののことを覚えているか調査したところ、なんとCグループが最もよく覚えていたそうです。これを心理学で「シロクマ効果」といいます。
どうしてCグループの人の記憶がもっとも定着しているのか?それは、シロクマのことを考えないという思考過程において、シロクマのことを考える必要が生じるからなのです。
みなさんも、思い出したくない出来事を、思い出さないように努力するばするほど、かえって頭から離れなくなるということはありませんでしたか。嫌な記憶を自然と忘れていくにはどうしたらよいのか。
それは、忘れたいと強く思わないこと、思い出すことを否定せずに、そのまま認めることが大切です。正直に紙に書き出してみたり、人に話をしてみたり…。まあ、しょうがないと思えるようになれば、ほぼ「卒業」なのでしょう。
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第122回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/7/21
マレーシアに5年間赴任していた方とお話しをしました。あるとき、上司のアメリカ人女性から、「今度の日曜日に、生活に困難を抱えている子どもたちへのボランティア活動があるから来ませんか」と誘われたそうです。経済格差が大きい国なので、それも必要なことだろうと思い、「ところでいかほど寄付すればいいのですか」と尋ねたところ、ともかく教会に来るように、とたしなめられたそうです。
教会では、子どもたちを抱きかかえながら、絵本の読み聞かせを行ったとのこと。上司曰く「この子たちの中には、親に絵本を読んでもらったことがない子、親にぎゅっと抱き締められたことがない子もいるのですよ」と。その時「ああ、自分は至らなかった」と思い知らされたとおっしゃっていました。
大乗仏教において「布施」とは悟りに至る手立てです。「布施」とは物やお金を差し上げるだけでなく、やさしい言葉(言辞施)、やさいし笑顔(和顔施)、やさしい眼差し(眼施)、やさしい振る舞い(身施)、やさしい心づかい(心施)、心地よい場所(床座施)、心地よい空間(房舎施)を提供することも含まれます。これらを「無財の七施」といいます。
子供を抱きかかえつつ、絵本を読み聞かせるという行為には、「無財の七施」の要素がすべて含まれていますね。子どもたちはきっとほっこり時を過ごしたでしょう。
仏教では相手に尽くすことが、そのまま自らの深まりになると説きます。これを「利他即自利」と言います。どちらかが先行すればどちらかが追いついていき、そして徐々に心が深まっていく。「即」というところがなんとも奧深いですね。
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第123回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/8/21
今月もお弁当持ち帰りの形で、「モグモグ食堂」を開店しました。冬瓜のかにあんかけ、ビーマンの肉詰め、たまごエビチリ、スパゲッティーサラダ、桃のコンポートでした。ケチャップの赤、枝豆の青、ピーマンの緑とカラフルなお弁当になりました。三度試作を重ねたので、きっとおいしくできたと思います。
子どもたちがお弁当を食べている動画を送ってくれる方がいます。「おいしいです。ありがとうございます」という声と共に、おいしそうに食べてくれる姿が届けられ、よし来月も!と意気が上がります。
お弁当を食べている時、娘から「このお弁当はお金を払っているの?どうして作ってくれるの?」と尋ねられたそうです。突然言われてうまく答えられなかったけれど、今度はしっかり伝えたいと仰っていました。子供のやわらかな感性は、本質的な問題にずばりと切り込んできますね。
人は支え合って生きていること、自分にも役立てること、などを話すのでしょうが、みなさんなら小二の子にどう説明しますか?なかなか難しいですね。
続けて「今度子供たちとおそうじをお手伝いさせてもらうことはできませんか」とお母さんは仰いました。また、他のお母さんからも「今度お掃除でもさせてもらえないかって、今話していたんてず」とのこと。最後にやってきた、ひろちゃんは、庭でひとしきり遊んだ後、箒とちりとりを持って落葉を掃いてくれました。突然このような声が何人からも届けられびっくりです。
「モグモグ食堂」を始めて4年が経ちます。子供たちもぐっと成長を遂げているのです。今度、みんなでお掃除をして、アイスを食べて解散!というイベントができそうですね。この子たちもあと10年経ったらどんなお兄ちゃんお姉ちゃんに成長しているのか、楽しみです。
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第124回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/9/21
「モグモグ食堂でお配り下さい」と茨城の農家の方からコンテナボックス3箱いっぱいの茄子が届けられました。数百個はあったでしょうか。ものすごい量です。あと2カ所にもお届けしたそうです。茄子たちは、かなり大い物や少々曲がっている物がほとんど、これでは出荷ができないとのこと。スーパーの店頭に並んでいる「よそ行きの」茄子の向こうには、こんなにも多くの物が廃棄されてしまうのですね。手塩にかけた物を無駄にしたくないとの思いでわざわざお届け頂いたのでしょう。
モグモグママたちだけでなく、お参りに来た人や近所の方にも10本ずつお配りしました。みなさんとても喜んで頂きました。我が家は、茄子の味噌汁から始まって、ラタトゥイユ、麻婆ナス、蒸し茄子、ナスミートスパケッテイなどなど、うまい秋茄子を堪能しました。大ぶりのナスの分厚い皮も、火が入ればクタクタになりました。身が柔らかな上に食感もあり、いつも買ってくる茄子よりむしろおいしいのではと話していました。茄子はその日のおかずでメインを張れる実力を持っているのですね。
お渡しした方から後日作ったお料理についてお話しを伺いました。茄子ピザ、茄子とポテトのミートグラタンというおなじみの料理から、「超やべぇやみつき大葉茄子」「茄子と豚肉のはさみ蒸し」、トルコ料理「バテゥルジャン・イマム」(訳すと「坊さんも気絶した」)などなど。料理の名前を聞いただけでもいろいろ想像できて楽しいですね。
届けられた茄子はいろいろな気づきを与えてくれました。またママたちと茄子の料理について盛り上がりました。まさに茄子の取り持つ縁、ありがたかったです。
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第125回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/10/21
とある大学の社会学ゼミで、「小さな飲み屋に一人で入りレポートする」という課題が出されたそうです。洒落てますね。チェーン店の居酒屋にしか入ったことがない若者に、小体な飲み屋はかなりハードルが高い。恐る恐る入ったところ、おじさんたちは大歓迎!ゴチになった人が多くいたとか。確かに、「社会現象」の実態分析をする以上に、父親世代の楽しみや悩みを聞けたり、社会の裏面を覗かせてくれたりなど、大きな学びがありそうです。提出された課題、ぜひ読んでみたいですね。
甲府の繁華街には、たくさんの居酒屋が軒を並べています。そのうちの小路の奧にたたずむ一軒「くさ笛」にいた時、どやどやと若い男女が入ってきました。ちょうどこの時、お得な回数券を発行して、飲み屋をはしごしてもらうキャンペーンをしていたのでした。つまみも飲み物も一品ずつ取ってひとしきり騒ぐと、それぞれ半分も残し、次の店へと去って行きました。ママの「下げてもいいですか」の問いに「だいじょうぶです」の声を残して… お店は、ちょっと静かな間が空きましたが、すぐガヤガヤとした声に満たされました。
お店に入ったら、おなじみさんの邪魔にならぬようちょっと控えめに、頼んだおつまみもしっかり食べ、しっかり飲むよう心がける。「ひとつの文化」であり、次代へ伝えたいことのひとつです。ママの心遣いや料理のこだわり、おなじみさんの温かさ…その店が重ねてきた年輪を感じることができます。
お店に対する敬意、頂く物に対する敬意を持つことが大切でなのではないでしょうか。私も、若い頃から、たくさんの学びを得させて頂きました。まことにありがたいことです。
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第126回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/11/21
今年はコロナ禍で様々な行事が中止となりました。近所の保育園でも同様。でも親子で楽しめるイベントを打てないか?ハロウィンと重ね合わせて、それぞれの家を出発、いつも遊びに行っている場所を回るというスタンプラリーを思いつきました。すばらしい智慧!
当日、お寺の玄関の外壁にオレンジ色の紙を切り抜いたカボチャをぺたぺた貼り、入口にはオレンジと紫の紙テープで作った簾をたらし、先生手造りの「Happy Harroween」のボートを設置。その前で親子で記念写真を撮ることにしました。子供たちの決めポーズ、ばっちり決まってましたよ。
順々と親子連れがやってきます。お寺からはお菓子を差し上げました。初めての親子行事でパパママもニコニコ。子供たちはお姫様や怪獣の格好や、はたまた今はやりの「Uber eats」のリックをびしっと決めている子も。撮影が終わると、いつものように庭を駆け回り、茂みに分け入り楽しそうです。パパママも子供と話をしながらいっしょに遊んでいます。久々にお寺にも賑わいが戻りました。
子供たちは家からお寺に来ると途中、道行く人に「かわいいね~」とほめられたそう。パパママが一緒にいることもあり、いつもより凛として誇らしげな顔をしています。また、私たちも子供たちと接してウキウキした思いになりました。私たちも子供たちからチカラを頂きました。
「維摩経」に記される「インドラの網」とは、編目に結いつけられた宝石は、自ら輝くことはできないけれど、周囲の宝石に光を与え合ってそれぞれがそれぞれの場所で輝いているのだということ。宝石ひとつひとつは、光を与え与えられて光っているのです。まさに人と人との関係性を表しています。
たぶんこの日の出来事は、子供たちが大きくなると記憶には残っていないでしょう。でも心の奥にこの経験がきっと薫習されているに違いない。すくすく育って欲しいと願った秋の一日でした。
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第127回「やすらぎ修行会」プチ法話 2021/12/21
机に向かっているとき、川のせせらぎや風の音、鳥の鳴き声などのBGMを聞いていると心が落ち着きます。不思議ですね。山の静寂といいますが、実に多様な音が交響しているのです。
以前奥多摩の浅間嶺を歩いたことがあります。浅間尾根は古来より、荷駄が行き交う要路として大きな役割を果たしてきました。小河内から木炭や山の産物を馬の背にくくりつけ、本宿へと運び日用品を買って村へと帰ったそうです。今なお尾根上には馬頭観音、地蔵さまが祠が残っています。
峠へと登る道はうねうねと尾根筋をたどり、急な斜面にさしかかるとジグザグを切ります。傾斜の緩い所ではペースを落とし、尾根上のコブには斜面を横ぎるよう道が付いているのでラクチンです。道を付けてくれた人の智慧はすばらしい。「道とお話しするように」歩くと、距離が近く感じるのです。
山道を歩いているときは思いを巡らすことができる。「あの時こうしていれば!」「どうして不愉快だったのか?」。思いが湧き起こるのは、自然の音に身をゆだね、心が柔らかくなっていること、そして足の置き所を探したり、花に目をやったりという新鮮な感覚を持ちながら歩いているからでしょうか。
都会へと帰ってくると、山で感じた新鮮な思いが心の底に沈殿してなかなか浮き上がってきません。都会の人工的な音は耳障りですし、道はまっすぐで無機質です。日々の営みも決まった時間に会社に行くなどなど、あたかも永遠に続いていくかのように思ってしまうのですから。
往事をしのびながら、たおやかな尾根をゆったりと歩くのはとても豊かな時間です。たまには日常を脱ぎ捨てて、新鮮な時の流れの中に身を置きましょう。