2024(令和6)年「やすらぎ修行会」プチ法話 第152回~第163回
第152回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/1/21
「もう、夕方だ」「ああ、土曜日になった」「あれ、今月も終わってしまう」「ああ、春も暮れていく」…。身の回りに、いつも時の過ぎゆくことをぼやいている人はいませんか。こういう人の口癖は「まあ、いいか」だそう。自らが楽しみを見つけようとしていないということに気づいていないのでしょう。
数年前、ご近所の一人暮らしの方が実家の近くに越されました。電話で話をすると「バス停やコンビニまで歩いて30分、買い物でさえも姪に車を出してもらわねば行くことができない。この地に閉じ込められて一生を終えるのか」と嘆いていらっしゃいました。
最近お電話でお話しましたが、弾んだ声で「今が一番幸せ」と仰います。通っている病院の先生から教室を紹介され、昔から習っていた民謡のみならず書道と水泳の教室にも通っているとか。民謡の先生は、三味線も教えてくれることになった上、車での送り迎えも、なんとお菓子やお食事まで用意してくれているそうです。「周りからは図々しいと言われるけれど甘えちゃってるの」とキュートです。さらに「実はプールで一番派手な水着を着ているのよ」とのこと。
人間には「教育(今日行く所)と教養(今日の用事)」が大切だと言われます。「木曜日には書道教室、ついでにお買い物」、「来週は…」「来月は…」、行く先に連なる「楽しみ」が「生きる力」を供給し続けてくれるのです。
自らが作っている枠から「エイッ」と一歩外へへ出てみると、そこに楽しみがあるかもしれません。
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第153回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/2/21
みなさまご存知の正岡子規。号の「子規」は「ホトトギス」とも読みます。結核に罹患し吐血した自分自身を、口の中が赤いため「鳴いて血を吐く」と言われるホトトギスに重ねて名を付けたそうです。
子規は、「花鳥風月」という美意識や技法にとらわれず「写生」という理論を掲げ、作者のまなざしや実感を重視する詠み方を提唱しました。これにより表現の可能性が飛躍的に拡大したのです。
瓶にさす 藤の花房 短ければ 畳の上に 届かざりけり 子規
藤の花房が畳の上に届いているのかいないのか、よく見るとなんと届いていなかったのだ、という感懐が一首の眼目。「けり」は「気づき」の助動詞といわれます。ここで注目すべき所は、花房を斜め上からではなく真横から眼差しているということ。作者の病臥している視線から見つめられているのが分かります。
子規が活躍した10年は、病が日に日に重り行くとき。隣の部屋に行くことかなわず寝返りをうつことさえ辛くなりました。その閉ざされた狭い部屋の中で様々な「気づき」を得、多くの歌を詠みました。
確かに死を覚悟した子規だからこそ、感性が研ぎ澄まされたのかもしれない。しかし、私たちも、世界を見定めるまなざし、対象の本質を感じ取るやわらかな心が欲しいですね。そうなれば、周囲のモノやコトは、もっと私たちに活き活きと語りかけてくれるようになるのでしょう。
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第154回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/3/21
接客業の「さしすせそ」をご存知でしょうか。それは「さすがです」「しらなかった」「すごいです」「センスある」「そうなんですか」を言うそう。相手の自尊心をくすぐって、会話が盛り上がりそうですね。
以前デイサービスに伺い、利用者のおじさいさんおばあさんとお話しをする「プロジェクト・ダーナ」に参加したことがあります。「ダーナ」とは布施の意。「自分の時間をお布施する」という活動です。
部屋に入ると「今日はお坊さんが皆さんのお話し相手に来てくれました」と紹介の後、テーブルに向かいお話しを伺います。私はおばあさんたちのテーブルへ。「あなたは何宗のお坊さんなの」「この近くに住んでるんだけど、バスが迎えに来てくれるんで楽なのよ」「食事をしてからお風呂に入るのが楽しみで」…。話に花が咲き一時間はあっという間。ホッコリした気持ちで家路へとつきました。
次の月はおじいさんたちのテーブルへ。「お宅はどちらですか」「近く」、「お仕事は何をされていたんですか」「勤め人」、「午後は何をするんですか」「何をやるのかね」…。会話がブチッと途切れ繋がりません。会話の「さしすせそ」を繰り出す隙間もありません。時計をチラリと見ると3分しか経っていない。なんとあと30分もある!沈黙に耐える辛さ、何をしに来たのかという申し訳なさ。「布施」とはとらわれがあってはならないものですが、なかなかそうはいきません。憔悴してグッタリ帰りました。
この時、「私の総合力が試されている」という言葉が下りてきました。傾聴技術-相づちをうつ、目を見て話す、表情を柔らかく-を身につけることも大事でしょうが、相手をやさしく包み込むオーラを持っていることが肝なのでしょう。果たして今まで私は何を培ってきたのか?反省した一日でした。
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第155回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/4/21
ホームレス支援団体が運営する住居施設を訪ねた時のこと。チョイ知りの方の様子を尋ねたところ、入居者に金を借りる、喧嘩をする、ふいと居なくなる、果ては布団に放尿、押し入れに脱糞する…。担当者は「ルールが守れないの方なので退去して頂きました」と申し訳なそうに話されました。
子ども食堂を運営されている方とお話しをすると、乱暴な子がいて困っているとのこと。靴を履いたまま家に上がろうとする、机の上に乗る、食事を手づかみで食べる。食事の後も、入ってはいけない所に侵入する、物を隠す、罵る…。でも可愛いところもあるそう。帰り際にスタッフにそっと近づき「ありがと」と言ったとか。
ママは、ずっとスマホをいじっているのだそう。子どもがトラブルを起こした時、何があったのかまったく知らないので、「きちんと側に居てあげてください」とお願いすると、「先生からは自分で気づかないと直らないので、近くで見守っていて下さい」と言われたとのこと。
「見守る」とは、何かの時にはすぐに駆けつけその子を守ることができるよう、よく注意して見ていること。「目をそらし」ていては、注意をするべきなのか、一緒に謝りに行くべきなのかさえ分かりません。
数年ぶりに会食を再開したところ、言い合いになり固い物を投げつけてしまいました。だいぶ力が強くなったので、もし怪我をさせてしまったらと心配に。とうとう一線を越えてしまったと判断したそうです。その方は「最後まで見守ることができなかった」と、複雑な顔で申し訳なさそうにつぶやきました。
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第156回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/5/21
青い空、川のせせらぎ、新緑の山並、色とりどりの花…春の息吹を全身に浴びながら、気仙三十三観音の歩き参りをしてきました。巡礼二日目、尾根筋を通る旧今泉街道からは、里山の裾に広がるのどかな山村風景を見渡せます。気仙川まで下りると、田植え前の代掻きの様子を眺め、のんびり堤防を歩きます。それから、国道へ出ると単調な道をただただひたすら歩くのみ。
お昼を使わせて頂く常光寺さんにようやく到着しました。観音堂をお参りの後、ご本堂でご詠歌講の方々が心づくしの手料理を接待してくれました。山菜の天ぷら、しどけのおひたし、蕗の煮物、ウルイの酢味噌、タケノコの煮物、おそばなどなど。春ならではの山の物のほろ苦さ、香りが食欲をそそります。皆さん手分けをして朝から作ってくれたのでしょう。一同その心もありがたく頂戴しました。
参加されていた方は、「御詠歌講の方の中にも一緒に歩きたい方がいるかもしれない。でもお料理を作って振る舞うというかたちで、巡礼に参加しているのかも」と仰いました。
翌朝その方は「「駕籠に乗る人、かつぐ人、そのまたわらじを作る人」という言葉があるじゃないですか。「駕籠に乗る人」とは誰なのか、昨日からずっと考えていたんです。「駕籠に乗っている」のは、亡き人を思う心や平和を思う心なのではないかと思いました」と仰いました。
私たちは、それぞれの立ち位置で「駕籠に乗る人」に心を寄せ等しく関わっている。奉仕する人/される人という差異を無化していますね。ありがたい気づきを頂いた春の巡礼でした。
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第157回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/6/21
『雑阿含経』に載る、「長者と4人の妻」のお話です。
「ある都」に、長者がおり、4人の妻がいました。第一番目の妻は、長者がこよなく愛し、高価な衣装を着せ、欲する物を全て与えていました。二番目の妻は、大変な苦労を重ね、多くのライバルと争ってようやく手に入れた妻でした。常に側に置いて言葉を交わしてはいるものの、第一番目の妻ほどは愛してはいませんでした。三番目の妻は、ときどき訪ねて愛し、気ままを言い合い、喧嘩をすることもありますが、すぐによりを戻す妻でした。第四の妻は、こき使いはするが、大切にしたり愛したことは一度もない、そんな妻でした。
さて、長者が「遠い国」へ旅立たねばならなくなったとき、それぞれの妻に一緒に行ってくれるかと尋ねたところ、一番目妻からも二番目の妻からも断られてしまいました。三番目の妻は、城の外までは送ってくれるといいます。四番目の妻は、必ずお供をいたしましょうと答えました。
この物語の「ある都」とは「現世」、「遠い国」とは「来世」のことを譬えています。それでは、「4人の妻」とは何を譬えているのでしょうか?
第一の妻は「身体」、第二の妻は「財産」、第三の妻は「家族」、第四の妻は「心」の譬えです。
それでは、あなたにとって一番大切なものとは何でしょうか。旅立つその時、誰に何を伝えたいと思いますか。
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第158回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/7/21
大学時代、農家を営む先輩の実家へバイトに行きました。雑誌広告には「男の子も女の子もワイワイガヤガヤ あなたも涼しい八ヶ岳山麓で高原野菜を収穫してみませんか。交通費支給。三食昼寝付き」と記されていました。ちょっと楽しそうな気がしませんか。
朝5時起床。まずサニーレタスの収穫、段ボール組み立てなど。朝飯前の仕事です。朝食後、見渡す限り広がる畑に連れて行かれると、先輩が一言「今日はあの木の所まで収穫するから」。ずっと向こうに木が小さく見えます。一人は白菜を根から切り、もう一人は4個を箱詰めし、でかいホチキスでバチバチ蓋をし、私が黙々と畑脇のトラクターへと運びます。一箱20キロ!トラクターが一杯になるとトラックに積み直し、荷台の幌に掴まって農協の集荷場へ。今度は積み下ろしです。
一番多い時は一人で140箱。疲れ果てて言葉が出ないというのは初めての経験でした。昼食後は爆睡。昼寝をしないと午後働けません。ビールは飲み放題と言われたので、やけくそでガンガンのみました。一週間経つと体はムキムキに。5,000円×7日+αで4万円をゲット。
お店の野菜売り場には、光を浴びた瑞々しい野菜が並んでいます。ここに至るまで、畑の収穫から始まり、農協の方、トラックで運んでくれた方、市場の方、店頭で並べる方などなど、果たして何人の方の手を煩わしたのでしょうか、どれほどの労力と時間をかけて今ここにあるのでしょうか。
食作法の一節を記しおきます。「この食は ほとけの恵み 命の糧を 心静かに戴きます」。
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第159回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/8/21
パリ・オリンピックが閉幕しました。インタビューの中で印象的だったのは、多くの選手が「この場を楽しみたい」と言ったこと。長年厳しいトレーニングを重ね、辛いことも、苦しいことも、喜びも経験して今ここに立っている。「緊張を楽しむ」ということは選ばれし者のみが見られる風景なのでしょう。
体操個人総合で金メダルを取った岡慎之助選手は、少年時代極めて消極的な性格だったといいます。新たな技にチャレンジする時もコーチから厳しく指導されようやく一歩を踏み出し、ミスをした理由を聞かれてはいつも「きつかったからです」としか答えられなかったとか。
そんな彼の転機は、膝を痛め手術をしたとき。トレーニングでできないその時期に、コーチから一週間に一冊本を読み感想文を書くよう勧められました。果たしてどのような本を読んだのでしょうか。アスリートのエッセイなのか、自己啓発本なのか、はたまた小説なのか?
練習に復帰すると言葉が紡ぎ出せるようになったとのこと。成功、失敗の原因を説明できるようになり、必要ないと思えば断れるようになった…。それから以前にも増して生き生きと演技ができるようになったそうです。
言葉を得るとは考える手立てを得ること。考えることで自らを見つめ、そして変えていくことができる。 私たちも新たな言葉を獲得して世界を広げ、自らを更新していかなくてはなりません。
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第160回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/9/21
「しんちゃん」から着信があり、折り返すと、「あら間違っちゃってごめんなさい。でも元気そうな声が聞けて良かったわ。またこちらに来た時に寄って下さいね」とのこと。
「しんちゃん」は奥多摩駅前の細い小路を入った所にある居酒屋です。大学時代、先生に連れて行かれてから、かれこれ30年以上も通っています。といっても一年に一度行くか行かないかですが…カウンターに6,7人で一杯というお店。冷奴、マイタケの天ぷら、鱒の塩焼き、おでんなど、その時ある物を出してもらっています。生ビールと地酒「澤乃井」で無事下山をお祝いします。乾杯!
お客は気さくな地元の方ばかり。フジ子ママも加わり、「どの山に登ってきたの」「若い頃は登ったもんだけどもう足が痛くて」「スーパーがなくなって不便になった」「前に比べるとお客さんがだいふ減ったわ」…。私も長い間訪れている街なので、いろいろな話題が共有できるのです。
翌日は、体を酷使した末の筋肉痛とともに、「しんちゃん」でのほっこり感を身にまといながらひと日を過ごします。そして、また奥多摩の山に行きたいなと思うのです。
帰りの電車で酔って熟睡していた時のこと、「青梅で乗り換えだよ。また奥多摩に行っちゃうよ」。揺り動かされ目を開けると「しんちゃん」での飲み友、ひげ面の通称「王子」(私と同じ年)が起こしてくれました。きっと近くで心配して見ていてくれたのですね。助かりました。
成就院も「しんちゃん」のように「日だまり」のような場所でありたいと思っています。
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第161回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/10/21
グランドに怒声が響くクラブがありました。部員の動きが気に入らないと、顧問が全員を止めて「指導」する。その時、部員は「下を向いて声が頭の上を通り過ぎるのをじっと待っている」のだそうです。言葉として認識せずに音としてやり過ごすのが自らを守る術だったのでしょう。結果どうなったのか。怒鳴られないよう自分の所にパスがくるとすぐ他人に回してしまうようになってしまったとのこと。
とある子ども食堂にお手伝いに行ったとき。トレイに食事を載せた子どもがテーブルに向かおうとすると、デンと転んでしまいました。ちょと足が不自由な様子です。ママは、「せっかくの食事がもったいない。どうしてできることをちゃんとやらないの」とどなります。子どもは泣き出し、他のママたちが片付けをしてくれています。新たに食事を盛りつけ、なだめなから食べさせてくれる人もいます。ママは怒りが収まらず、向こうの部屋へ。
「はぐくむ」の語源は、親鳥がひなを羽で包み大切に優しく育てること。まず、スタッフへいっしょに謝り、いっしょにお礼を言うことが大切なのではないでしょうか。失敗しても背中を押して勇気づける、それが「はぐくむ」ということ。ただ叱られるばかりでは、結局失敗しないようにと、何もしない人間になってしまう。
でも、片付けを手伝ってくれたママはこう言っていました。「ママは、だいぶ疲れているんじゃないかな」と。ママも子どもも、温かな心で優しく包んでくれていました。
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第162回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/11/21
陸前高田市広田半島の先端、鳥の囀りや風のそよぎが聞こえる森の中、カフェ「森の小舎」がひっそりたたずんでおり、前庭には朱色で塗られた円筒型の「漂流ポスト」が設置されていました。これは、宛所のない手紙が漂流し、そして漂着するポスト。大切な人を失った苦しい胸の内を吐露した手紙が気仙ばかりでなく全国から千通以上も漂着いたしました。
今年から、ポストと手紙が徒歩巡礼で訪れる慈恩寺さんに移管され、私も初めて目にしました。
ある手紙には「向こうからの眺めはどうですか。ゆっくりのんびり過ごしていますか。でも心は冬の日の寒さの中。誰にも本音を打ち明けることが出来ず、いつも一人風の中です…」と記されます。「逢いたい。逢いたい。逢いたい」と「逢いたい」が連ねられている手紙、また「あのとき助けることが出来なくてごめんな。左手でつかめなくて。「俺つかむとこない」という最後の言葉。その後、親父の沈んでいく姿。苦しかったべ」と後悔と懺悔が綴られた手紙もありました。
別の手紙には「一番嬉しいのは、出会えたこと 一番寂しいのは、会えなくなること 一番悔しいのは、伝えられないこと 一番怖いのは、忘れ去られること」と記されます。
悲しみは乗り越えるものではなく、抱きしめて生きていくもの。繰り返し思いを言葉にすることで、その「覚悟」がカタチをなしていくのではないでしょうか。
「弔う」とは「訪らふ」。私もずっと気仙を訪れ、弔いを重ねて行きたいと思います。
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第163回「やすらぎ修行会」プチ法話 2024/12/21
教員時代、山岳部の合宿では、各駅停車一日乗り放題の「青春18きっぷ」のお世話になりました。8時半に上野を出発。足を投げ出し本を読んでいましたが、ウツウツ。目覚めると筑波山が。再度本を読みまたウツウツ。いわきで購入した駅弁を食べ、皆とトランプに興じます。外には海が広がっています。だいぶ遠くに来ました。その後、ビルの群れに分け入ると、仙台に15時過ぎに到着。
京都へ行くときは、わずか2時間10分で着いてしまうので、もちろん新幹線を利用します。でも、車内ではどうも本が読めません。すばやく流れゆく車窓の風景に気を取られるのでしょうか。あまりのスピードをどこかで感じ取り緊張してしまうのでしょうか。車窓からの風景で覚えているのは、もちろん富士山!それと浜名湖周辺の湖の上を走っているように感じる所ぐらいです。
各駅停車の旅は、車窓からの風景を愛で、同行とのふれあいを喜び、地元の食を味わう、ゆっくりゆったり過ごすことで「旅行くこと」を五感で感じ取ることが出来る。でも、せわしない日常を過ごしている人には、まずかなわない、贅沢な時の過ごし方です。新幹線でぴゅーっとすっ飛ばして目的地に向かうしかありません。
人生の味わい方も旅と同様、効率を求めて過ごさねばならない日々ですが、たまにはゆったりと「今、生きていくこと」を五感で感じながら過ごすことが大切です。「各駅停車」と「新幹線」、ふたつの物差しを持ち、意識して使い分けることが大切なのではないでしょうか。